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三十五度六分、キミの冷たい手の平。 小等学校に上がるくらいの頃から、笑ったり泣いたり怒ったりすると、頭の奥に変な音が響くようになった。若しくは、病院の集中治療室の前を横切る時。黒板や窓ガラスや硬いチョークを爪で引っ掻いたような高音。クラスの、他の誰にも聞こえていない。 一年前くらいに気付いた、あれは「悲鳴」なんだ。 消えゆく命の、儚い嘆き。 「良生 ?」 良生と呼ばれた少女は、たった今事切れたカエルから視線を外し声の主を見上げた。五つ年上の彼は肩をすくめ、良生の頭にポンと手を乗せる。十代半ばの其の顔立ちは半分大人で半分子供で、少年とも青年とも呼び難かった。良生に取ってはもう十分大人なのであるけど。 「カエルにも天命があるんだよ‥」 「てんめい」の意味を尋ねず、良生はカエルに視線を戻す。 「てんめい」が在ったから、彼は死んでしまったらしい。 「ほら、カエルは今から土に成るんだから放っといておやりなさい。まだ土に成らない僕たちは真っ直ぐお宮さまに行きますよ」 彼はふざけた調子でそう云って、良生の手を取った。 「文月 兄ちゃんの手、冷たい」 「そか?良生の手と同じくらいだろ」 「みんなラキより温かいもん」 文月は良生の従兄弟。「ああ」と納得の声を出し、にやりと笑って見せる。繋いだ手を少し高くして握り直した。 「良生、之は自慢して良い事なんだ。手が冷たいのは心が温かい証拠」 麦畑の横をか弱く延びるコンクリの道を行って木漏れ日の下を歩いた。朱の剥げた鳥居をくぐり、急な石段を上る。神社の軒先では、紅葉を迎えたばかりの楓たちが砂利道に色を添える。 良生は何かを見つけて、解けかけていた文月の手を強く握り返した。 「良生?‥ん?あ、」 文月はすぐに其の意味を察した。縁側に一人の子供 ―― 良生と同じくらいの歳の子が、腰掛け柘榴の実を口に運んでいる。 「京‥!久しぶり」 手を降ると、其れに気付き微笑む。黒髪の白っぽい肌。 「‥京ちゃん苦手‥。目が‥鬼みたい‥」 文月にだけ聞こえる声で、良生が呟く。京の目は鮮やかな赤色。そう云う彼女も赤茶色の瞳なのだけれど京の目はもっと、一点の濁りもない赤だった。髪は黒く、白い肌に真っ赤な瞳。其の子が曰く付きの柘榴を頬張り微笑めば、多少なりとも不気味さが漂うのだ。 「京もきっと良生のことは苦手だと思ってるぞ‥?」 「‥何で?」 「良生の『考え』が京にも乗り移るから」 言葉の意味が解らず、良生は考え込んでしまった。其れが何だか微笑ましくて、文月は繋いだ手を揺らす。 秋の匂いを含んだ風が、髪を揺らした。乾いた空気を飲み込んで文月が咳をする。咳はなかなか止まらなくて、良生も其の危うさは感じていた。 「‥あ、神埼さん‥、こんにちは」 中年肥り気味の神主が、砂利を踏み締めながら歩み寄って来た。やや整わない息で文月が微笑む。 「いらっしゃい文月さん、良生さん」 返す神埼も、満面の笑みを湛えていた。微笑む細い目からは哀愁が滲み出していて、二人から紅葉へと其の視線を移す。 「秋の匂いを嗅ぐと、楓は紅く染まり出す。私も秋の香りは好きですが、楓ほど早くは察知出来ません。 自然は偉大だ、人間など足下にも及ばない」 神埼はいつも思わせぶりな言葉の紡ぎ方をした。其れこそ、聖職者らしく。 「良生さん、少し京と遊んで来ませんか‥?文月さんと少しお話があるので」 良生は神埼と文月の顔を一度づつ見て小さく頷く。去り際、文月が彼女の頭をぽんと叩いて「『考え』は乗り移るんだよ」と耳打ちした。良生は眉を寄せたまま京のいる方へ向かった。 「京‥ちゃん‥!」 声を聞いて初めて気付いたと云うように、京はふっと目の前の良生を見上げた。そして微笑んで、手の平の上の紅い果実を差出す。 「良生も食べる?」 「ううん‥」 取り敢えずと京の横に腰掛ける。京の視線は其の動きをずっと捕えていた。考えてみれば、一体この子と何をすれば良いと云うのか。お家でまったり工作をご志望なのか、外で冒険ごっこが好きなのかさえ知らないのに。 不意に京が冒険ごっこをしているイメージが脳裏に浮んだ。野山をかき分けて、小鳥をくわえた猫に遭遇する。何故か近くに良生の姿はなくて、京は一人冷やかな目でまだ息のある小鳥を見つめていて。彩度の低いイメージの中で京の目と肌の色だけが、嫌に鮮明だった。 「良生‥?」 「あ、うん‥」 良生は視線を泳がせたり、足をぶらつかせながら保ちもしない間を保たせて、必死になって次の言葉を引っ張り出す。云べき事は解っている。でも、口に出すのが難解なのだ。 「ねぇ‥京ちゃん。遊、ばない?」 京は驚きを表に出す事もなく、もう一度静かに微笑む。柘榴の実を陶器の平皿に戻して縁側から軽やかに、音も無く下りた。 「『コックリさん』って、知ってる?」 不意に挙げられた言の葉に良生は思い切り首を横に振る。京の白い指が良生の其れに絡んで、雑木林の方へと誘う。 温かい手だ。知らない手の平。静かな境内に、咳の音だけが響いていた。 menu・
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