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ぼくは唯あなたを想いながら 例えば月が太陽の後を追うように 例えば虹が雨の後を追うように あなたの後ろ姿に 届かない手を伸ばして 決して縮まることのないその距離に 小さな ため息をつく ひたいに滲む透明な汗と、秋のよく晴れた空。伸ばした手の先の遥か彼方に遠ざかった、淡い青。 「サクくん?」 ぺたんこの黒いランドセルをだらしなく背負った“朔”は、不意に名前を呼ばれて伸ばした手を引っ込めた。振り向いて見えたのは、見慣れた制服の女の人。 「蒼彩さん、おはよう」 「こんにちは、朔くん」 “蒼彩”は当たり前に朔のおふざけを正して、畔道を行く彼の横に並んだ。「蒼彩さん帰り早いね」との朔の問いには「部活無かったからね」と答える。 蒼彩は朔の家族が住んでいるアパートの、大家さんの娘さん、だ。隣駅の高校に通っていて、陸上部の長距離ランナー。細かい種目なんかのことは、よく知らない。日焼けで焦げ茶色になったショートヘアは、ワックスでぴょんぴょん跳ねていた。 「朔くんは遅いね。どっか遊び行ってたの?」 「クラスの奴らと“コマ”やってたんだ」 「コマ?」 「地球で流行ってたオモチャなんだって。とがったキノコみたいな形してんだ。こう……」 必死に伝える少年の姿が微笑ましくて、蒼彩が思わず笑う。それを見つけた朔は笑われた事が何やら不満らしく、今度は一転怒り出す。勿論そんな姿も結局彼女の「ツボ」にハマって、笑いを増幅させるだけなのだけれど。 朔は、蒼彩の笑顔が好きだ。 それは無論彼女に対しての好意であって、家族にも友人にも覚えたことのない好意だった。小学生でもその気持ちの意味を知っているし、自覚も在る。大人からは「少年期にありがちな大人の女性に対する憧れ」とでも片付けられそうだ。でもそうでないことを朔は解っている。蒼彩の方も「大人の女性」とするにはまだ幼いし。 今の朔の年齢では届かない想いであることも、解っている。 「でも部活無いんだったら、たまにはどっか遊び行って来れば良かったのに」 「あら、朔くんは私が早く帰ってくると不都合があるのかしら?」 近所の小学生の、こんなたあいもない会話に蒼彩は付き合ってくれる。楽しそうに、言葉を返してくれる。 そうして朔は止まりそうになる心臓をつき動かして、彼女に同じ問いをする。 「へー、蒼彩さん一緒に遊んでくれるカレシいないんだぁ」 もう何度も心臓を軋ませた。茶化すような口調は、もう板について揺らぐこともない。これからも、何度も心臓を痛め続けるのだ。どちらかの終末を迎えるまで。 何度も、何度も。 「ふん、今に見てなさい、彼氏なんてすぐにできるんだから」 この否定の言葉を聞くだけのために、 この単純作業を繰り返すことが、朔にとって、世界のすべてだ。 白昼夢も夢のひとつなら、それが悪夢であるこも往々にしてあるだろう。 「なぜだ」とその言葉ばかりが頭の中を徘徊した。 なぜ今週に限って、掃除当番なのだ。なぜ今日に限って、駅前に来たのだ。なぜ今日に限って、雨なのだ。なぜ今日に限って、人混みの中で蒼彩を見つけたのだ――否、どんな人混みでも朔が蒼彩を見つけるのは必然かも知れないが。 その日は秋の雨で、辺りは少し薄暗かった。傘がスペースを取るせいで駅前はいつもより更に窮屈だ。 朔は学校を休んだ友達の家に、プリントを届けに来たのだ。その子の家が偶然駅の近くで、来たくもない雨の日の駅前に突立っている。見たくもない悲劇を目の前にしている。 改札の辺りにいる蒼彩が叩いたのは、同じ高校の制服を着た男だった。怒ったような笑ったような表情。男の方は満足そうに笑っている。 蒼彩は男を叩く前、傘をさそうとしていたのだ。今どき見ないジャンピング傘が勢いよく開いた。その傘がビニールではなく布だったために、周囲の視界は遮られた。 男はスクールバッグを背負った利発そうな好青年で、蒼彩に気があるのだ。視界が遮られたこの機会を逃すことなく、自分の顔を蒼彩に近付けた。 そのあと彼は顔を赤くした蒼彩に叩かれるのだが、不満はないだろう。 そのとき彼が触れたのが唇だったにしろ頬だったにしろ――若しくは触れていなかったにしろ――朔には同じ意味があった。 世界は、崩れたのだと。 「あ、おはよう朔くん」 ある日の朝だ。いつもならとうに朝練に出ているはずの蒼彩が、アパートの前にいた。見慣れた制服姿だが、荷物はずっと控え目だ。 「おはよう」 どんな顔で、どんな声で挨拶をしたら良かったのだろう。彼女に噛み付いて逃げ出したい衝動を抑えながら、朔は歪んだ顔で笑った。 今まで、全然平気でないことを平気な顔でできたのに。 「蒼彩さん朝練は?」 「今日はお休みだよ。久し振りに朝遅いから、朔くんと一緒に行こうかなぁって思って」 「えー、そんなんカレシが聞いたらしっとするよ?」 心臓が、まだ動いていることが不思議だった。どんな言葉を期待していたのだろう。80%以上の確率で、それは朔を傷つけるのに。 そうして彼女はいつものように答えるのだ。 「どぅせ誰も嫉妬なんかしてくれませんよ」 ああ。 彼女は嘘をつきたい訳ではないのだ。直接的な偽りは、決して口にしない。ただ、 「オレだったらしっとする」 ただ、必要ではないと思われたのだ。「子供」に、わざわざ伝えるようなことではないと、判断を下した。 「子供」だから届かない。「子供」だから手を伸ばすことさえ許されない。 「えへへ、ありがとう」 「あの人もきっとしっとするよ」 「え?」 不良がそうするみたいに蒼彩の襟を掴んで、ただ朔の方が背が低いから、引き寄せる形になる。息を感じる距離まで顔を近付けて、決して触れることはなく、ただ、 泣きそうな声で呟く。 「蒼彩さんなんて、キライだ」 伝わっただろうか、朔が何を見たのか。 伝わっただろう、ぼくがあなたに焦がれていたことくらいは。 そのあとは、確か逃げたと思う。記憶が曖昧なのは多分、蒼彩とはそれきり疎遠で思い出す機会が無かったからだろう。 ただ強烈に記憶に残っているのはあのときの彼女ではなく、もっと別の、 『ねぇ朔くん、彼岸花の葉っぱってどこにあるか知ってる?』 『葉っぱ?』 『そう葉っぱ。一緒に生えてないでしょ?』 畔道いっぱいの赤は目に眩しく、記憶の中でさえその色はあせない。彼女はその赤い花を前に、とても遠いところを見るような目で言ったのだ。 『葉っぱはね、花の何ヵ月も前に生えるんだよ。花は追いかけるみたいに急いで咲くんだけど、絶対に追いつけないの』 『絶対に?』 『うん、絶対に』 もしかしたら彼女も朔と同じように届かない手を伸ばしていたのだろうか。 『曼珠沙華の恋は、叶わないんだよ』 menu・
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