蒼ノ奇跡
「梢太 。アンタまたそんな処でうずくまってんの?」
清々しく晴れた初夏の空の下、本の日焼けを防ぐ為に意図的に陰のつくられた本屋。その中のあまり人の寄らない専門書のコーナーに、梢太は半べそでうずくまっていた。本屋の娘の春生 は腰に手を当てて、露骨に溜め息を吐く。
「今日は何処に行く予定な訳?」
「‥‥図書館。」
梢太の頭にぼふりと黒い布が覆い被さる。驚いて春生の方を見ると、彼女はその布の上から梢太の頭をべしりと一発叩いた。脇に手を入れて、自分より一回り背の低い少年を無理やりに立たせる。
「ほら付いてってあげるから。歩くぐらいは出来るでしょ?」
鼻をすする音で返事をして、梢太は首を縦に振った。
この地面の下には街がある。太陽を知らない人々の街。たった一人を除いては、その街から逃れる術を知らない。
たった一人は街から逃れて、太陽の恐怖におののいていると云うのに。
「梢太は‥毎日何を調べてるの?」
図書館のロビーに付いて、黒布を脱いだ梢太に春生はごく当然の様に尋ねた。然るに梢太は目を丸めて、「え?」と驚きの声をあげる。
「苦労して下 から逃げて来て、毎日辛い思いまでして図書館に来る。一体何の為に?」
梢太は伏し目がちに視線を外し聞こえるか定かではない様な声で、小さく独り言みたいに。
「春生に、迷惑をかけなくて済む方法かな。調べてるの。」
春生は思わず唇を固く結んで顔を赤らめた。
「迷惑をかけなくて済む方法を調べる為に迷惑をかけるなんて矛盾だわ!」思い浮かんだセリフを飲み込んで、梢太と似た様な声量で、代わりの言葉を紡いだ。
「迷惑なんかじゃない。」
嘘をついたつもりはない。でも梢太は嘘として受けとるだろう。微笑んで、
「ありがとう」
って。
太陽のない街と太陽のある街を繋ぐ唯一の出入口。下の街の天井に開いた小さな穴。
マンホールみたいな、小さな穴。
夜の帳が降りて辺りには漆黒の闇が広がる。街灯のオレンジ色の明りの中を、梢太はひたひたと歩いていた。オレンジの灯に映し出された交差点は、赤信号で一層に紅く。微かな恐怖を覚える人がいてもおかしくない其の奇怪な空間で、梢太は安堵の溜め息をついた。星のない夜の空は閉じている。其れが有り難いのだ。
一台のバイクが赤い光の帯を引きずりながら過る。信号の色は若葉色に変わり、赤はほんの少しだけ薄まった。
「梢太‥?」
いつもの明るい声が、密やかに響いた。顔を上げると、コンビニの袋を提げた春生が横断歩道の向かい側にいた。梢太がぼんやりと「あ」と反応を示すと、あまりのゆっくりさに信号は再び紅く染まる。
「今図書館の帰りなの?」
向こう側の歩道のから春生が問い掛ける。遠目でも解るくらいに、梢太はしっかりと頷いた。
「夜外に出るのは怖くないんだ。」
「夜は閉じてるからね。」
「どう云う意味?」
今度はミニバンが一台過った。エンジン音が辺りに反響する。
「蒼い空は何処までも抜けているから恐いんだ。途方もない迷路に、ぶち込まれた気分になるから。」
信号が青になる。二人とも動かない。
「下にいた時は『空』に限りがあったから、其の小さな限界まで行けば良いって、思えたんだ。あの天井に開いた穴が、世界の限界だった。 でも蒼い空は違う。僕は何処まで行けば良いんだろう。」
「何処にも行かなくて良い。」と、すがる様な言葉は大型トラックから流れるトランスの音楽に潰された。道はまた紅く。
「『太陽のない街』から逃れる唯一の方法は、天井に開いた穴まで翔んで行くだけ。
母さんがくれた名前は、僕に其の術をくれた。『翔足 』、空を翔る足を。」
遠くで赤ん坊の泣く声がした。ほんの一瞬辺りに音が広がって、また静かさを取り戻す。
「翔る足しか持っていないから、僕は上にしか行けない。空を恐れて下に逃げ帰ることは許されなかったんだ。」
蒼い信号を、春生が渡る。渡りきった彼女は今朝と同じ様に翔足の頭を叩いて、そっとその手を引いた。
「翔足は蒼い空を恐いと云うけど、其れは贅沢よ。
私達は奇跡的な確率でこの星の空の見える地に生まれた。それも蒼を蒼と認識することの出来る健全な身体で、空を見上げても良い立場で。
望んでも叶わないヒトは沢山いるのに。其れを毛嫌いするなんて贅沢じゃない‥?」
引かれた手をぎゅっと握り返す。
自分は贅沢なんだと思う。この名前をくれた人に、今迄一度も感謝したことがなかった。今からでも遅くないだろうか。『翔る足』を手に入れて、太陽の見える街に辿り着いて。奇跡的な確率で君に出会ったことを、感謝したことのない僕はきっと贅沢だ。
「ねえ春生、翔んでみたい?」
君の笑顔の見れる其の奇跡を。
制作:06.07.09
UP:06.07.10
UP:06.07.10