食べたい。死ぬ程食べたい。

 気持ち悪くなって戻しちゃうくらい、

 水を飲み過ぎると人間が死んでしまうみたいに、

 食べ過ぎて死んでしまうくらいに、食べたい。

Blue Bird



 コンビニの袋いっぱいに甘い菓子パンの香り、スナックの袋が掠れる音。そう云うモノを右腕に抱えて、普通の荷物を左肩に架ける。

 ―― 食べたい。食べたい。食べたい。

 朝の教室には疎らに人影が在るばかりで、普段では考えられない程に静かだ。何時もこうなら良い。騒音の種となる輩は、時間ギリギリにならないと現れない。

 ―― 食べれば食べただけ、素直に肥る体質なら良かったのになぁ‥。

 菓子パンの袋を一つ、開ける。拳よりも一回り小さいクリームパンが五つ連なって入っている奴だ。一つ目を頬張る、細身の少女にしては大きな口。二つ目、三つ目‥。見る見る内に姿を消して逝く柔らかな丸い固体。ミネラルウォーターを流し込むと、いっぱいだった口の中が一時的に開放された。

 ―― 『満腹チュウスウ』が可笑しくなっているんだ、きっと

 アップルパイを手に取ると、袋の掠れる音と同時に鳩が窓の下へ落ちて行った。空は濁りのない鮮やかな水色をしている。不意に風が流れた。

 When the night has come .... And the land is dark ....

 透明で女の子の其れであろうアルトヴォイスが、余りに有名な曲を解らない英語で奏でる。風に溶けた音色は辺りに滲み、空気の色さえ変えていく。
 “紗都(さと) ”はアップルパイの残りを口の中に放り込んで、音を立てながら席を立った。教室の中には曖昧で控え目なざわめきが満ちている。「何だろう」とか「キレイ」だとか、こんな時間に教室いる人間らしい感想ばかり。之が始業のチャイムの直前だとしたら、「うっわ、七不思議かよ」くらいのセリフは飛んでも可笑しくないのに。つまらない人達。
 そんなクラス(・・・)を尻目に紗都は“歌姫”の正体探しを決行することにした。担任の先生が現れるまでの有余はおよそ15分だ。

 歌は続く。何度でも繰返すCDプレーヤーみたいに、疲れを知らないマグロみたいに。

 ―― マグロは泳がないと死んでしまうんだよ。人間が食べないと死んでしまうのと同じに‥。

 歌姫は歌わないと死んでしまうのですか‥?有り得そうもない考えに至る程に歌は続いていた。
 紗都は素直に音楽室に足を運ぶ。校庭で歌っていたのだとしたら声は散ってしまうだろうし、他の教室はくぐもり、体育館ならもっと無遠慮に響く。歌声は確かに声量を増し、廊下に漏れ出した音色が反響して其の色に空気を染め上げていた。
 音楽室のドアを開けた途端に、歌声はぷつりと途絶える。誰もいない教室にはグランドピアノの威圧感が満ちているだけだ。

 ―― 七不思議?

 不意に右の方から、金属音と一緒に人の気配がした。
 第二音楽室は準備室を挟んで第一音楽室と繋がっている。準備室から現れたのは音楽の信田先生だ。二十代後半の、耳に付くソプラノヴォイスを備えた女性。

「あら、谷垣さん何かご用?」

 ―― そっか、第一音楽室‥。

 紗都は信田先生に愛想笑いだけを返して「何も」と機械的に答えた。先生は先生で特に気に止める訳ではなく、「そう?」と答えてピアノの上のプリントに向かう。
 歌声が止んで、音楽室には紙の擦れる音だけが潜んでいた。紗都は信田先生に一例してから踵をかえす。

 ―― お腹が空いてるから食べる訳じゃないし、美味しい物を味わう為に食べる訳じゃないし、
 ―― ただ食べないと、可笑しくなってしまうから。

 ―― 歌姫さん、貴女は?

 アナタも可笑しくなってしまいますか?

 第一音楽室を覗くと、窓際に見慣れない男子生徒の姿があった。柔らかそうな茶髪に、すらりと細長い手足。逆光に照らし出されるのは其の華奢な後ろ姿ばかりで、顔立ちの一切は窺い知れない。
 歌が流れた。

 Oh stand, stand by me, stand by me ....

 先刻より遥かに鮮明で、艶を帯びた音色。其の“音色”を紡ぐのが目の前の少年だと気付くのに、大した時間は必要としなかった。澄んだ高めのテノール。

「貴方は‥誰ですか?」

 不意に届く紗都の言葉に、少年は驚き振り向いた。白い肌、青い瞳、戸惑い言葉を見失った唇。

「ずっと貴方が歌っていたんですか?」

 少年は「えっと‥」と僅かな音を発するので精一杯な様子だった。顔一面を紅潮させて、白い肌に朝焼けの朱が映り込む。

「ごめんなさい、耳障りでしたよね?同じ曲ばっかり‥。」

 青い瞳とは対極的に、至極日本人らしい身振りをした。まるで赤ん坊をあやす子守歌みたいに綺麗な音の日本語を紡ぐ。

「好きなんですね、歌」

 彼は困ったように目を泳がせて、もう一度「えっと‥」と言葉を白く濁した。
 不意に風が強さを増して、紫色の疾風が吹き過ぎる。カーテンは高く天井を掠める程に舞い上がって、机の上のスコアが歌を謳いながら舞う。紙が風に打たれる鋭利な音は非現実的な色を帯びていて、何処か不安定で、形も存在も曖昧な薄っぺらい、何か。

「嫌いですよ、歌なんて」
「え?」

 震える息でする溜息。斜めから差し込む薄い光に、青い宝石はきらきらと応える。

「中毒なんです。だから、この歌は特に‥」

「歌わないと‥如何なるんですか?」

 ―― 食べないと如何なるんですか?
 ―― 頭が可笑しくなって、嫌なことばかりが脳ミソを徘徊します。
 ―― 絡まった糸を引き千切ってしまうかも知れません。

 キミが私を幸せの道具みたいに見るから、私はキミを不幸のどん底に突き落としてしまいそうになる。キミは私が散らかした部屋を見て、困ったみたいに笑うんだ。床を埋め尽くす白い無数の紙切れに。
 床に散らばったスコアに手を伸ばし、其れを手にぺたりと座り込んでしまう。体育座りみたいに膝を抱えて、くしゃくしゃになった紙切れは其の白く輝く翼を青空に。

「自分が自分でなくなってしまう気がして。
 ‥そんな訳ないって解っていても、ダメなんです」

「歌わないことなんて、僕には無理なんです‥」

 其の色に染まって、まるで其の色が自分自身みたいに。

 「幸せの青い鳥」は「幸せの青い鳥」としての価値しか持たなくて、其の美しい囀りや壮大な翼を必要とされることはない。幸せを求めた兄弟は色以外のモノに目をやることが出来なくて、鳥は独り儚げに歌っていたかのかも知れないのに。

 ―― ボクのコトを見付けて
 ―― 青に埋もれた幸せを、見失わないで

 色に溺れたボクヲ。

 誰かが囁いてくれるだろうか?キミが欲しいと。必要なのは貴方なのだと。

 気持ち悪い。吐き出してしまいそうになる。他人と共存しなければいけない世界が。
 独りで生きれない自分が。一途に生きれないワタシが。

 大嫌いだ、こんな世界。欲しいのは、キミの、

「ワタシは谷垣紗都。貴方は?」

 欲しいのは、キミの中身だけ。



制作:07.01.08
UP:07.01.08