こと の は
「言葉」――人がものを言うときの音の組み合わせ。単語。
「琴音、なぁ移動教室だよ」
「あ、うん。ごめん」
中学生になって、みんな制服を着るようになった。教科で先生が変るようになった。知らない同級生が沢山になった。知らない言葉が溢れてる。
のろまで冴えない琴音のこと、幼馴染みの勇ちゃんは見捨てないでくれる。同じクラスなのは、多分神さまがくれたご褒美。勇ちゃんは優しい、明るいし、でも別に女の子にモテない。
「あ〜勇二くん琴音ちゃんといちゃいちゃしてずるいんだ」
「してないよ。原崎さん琴音のこと連れてってね」
「は〜い」
クラスの女の子たちも、見捨てないでくれる。みんな優しい。みんな優しいし、みんな凄い。小学生のときとは違う言葉で喋る。ぺらぺら、ぺらぺら。
のろまで冴えない琴音は、上手に言葉を紡げないのに。
「琴音ちゃん、理科室だよ?どうかした?」
「ううん、ありがとう。行くよ」
すごく空が晴れてた。綺麗だけど、きっと外は寒い。廊下に出たら当たり前に白い息が出た。
琴音の言葉はなかなか外に出て行かない。
×××
空に見とれてたわけじゃないよ。硝子の器が琴音の汚い手をいやがって、滑り落ちていった。その一部始終を見ていたはずなのに、琴音には止めることもできない。
「琴音ちゃん……!!危ない!」
手の平から飛び立ったシャーレが、ゆっくり、ゆっくり、硬い床に吸い込まれてく。ああ割れてしまうって、思ってからだいぶしてからシャーレは割れた。すうって、熱が引いて行く。
「琴音ちゃん大丈夫……?!ケガしてない?」
「あ……う、ごめ……」
ああ、どうしよう。謝らないといけないのに、言葉が出て来なくって。原崎さんが、クラスのみんなが、琴音の方を見てる。謝らないといけない。声が出て来ない。
「気にしなくて大丈夫よ。ケガしてないなら、片付けないと」
「あ……」
先生の言葉が、琴音の入り口でつっかえて、飲み込めない。謝らないといけない。片付けないといけない。声が出てこない。
「あ……、……」
謝らないといけない。片付けないといけない。解ってる。だから、見ないで。いま謝るから。いま片付けるから。
「……、……」
声が出て来ない。息が出来ない。いま謝るから。いま片付けるから。
だから、琴音の方を見ないで。
「……!…、」
見ないでよ。苦しいよ。声が出て来ない。すぐに謝れない。ごめんなさい。情けない。声が出て来ない。息が出来ない。ごめんなさい。謝らないといけない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「……、……!」
保健室の先生が、琴音はあのあと、「かこきゅう」になって倒れたんだって教えてくれた。勇ちゃんや原崎さんが助けてくれて、運んでくれたって。
別に病気じゃない、って教えてくれた。でも気をつけないといけないって。何を気をつければ良いなかは教えてくれなかった。
×××
誰が言っていたんだっけ。人間は身体の一部が、くっいている間はそれを綺麗だと思って、離れた途端に汚いモノだと思うんだって。例えば髪の毛とか爪、皮膚。
琴音にとっては、言葉もきっとそう。自分の中にある内は大丈夫。でも外に出して、私から離れた途端に醜くて、汚いモノに思える。もう私は、アレの醜くい姿を修正することはできない。離れてしまえば元には戻せない。
無責任。
「琴音?開けても良い?」
カーテンの向こうから勇ちゃんの声がする。いつもなら遠慮なんかしないで開けるのに、きっと保健室の先生に何か言われたんだと思う。
勇ちゃんの言葉は優しい。ぶっきらぼうだったり、言葉が足りないときだって有るんだと思うけど、琴音に届くときには、ちゃんと優しいよ。
自分でカーテンを少し開けた。ちょっとして勇ちゃんの顔が覗いた。不安そうな顔をしていたのに、すぐににこっと笑った。
「男子禁制だって、先生に怒られた。原崎さんが入れてくれた」
こくん、ってうなずく。勇ちゃんが少し困ったような顔をして、少しだけ開いたカーテンの前にスツールを置いて座った。
「声、まだ出ない?」
「、……っ…」
声、まだ出ないよ。どうすれば声が出るのか、思い出せない。きっと琴音が言葉をちゃんと使ってあげないから、すねてしまったんだよ。
今まで、本当にちゃんと出てたのかも分からない。先生が「別に病気じゃない」って言ってたって、勇ちゃんに伝えられない。
「琴音はさ、いつもあんまり喋んないけど、やっぱこれっぽっちも声が出ないのは辛いだろうし」
「…………」
「琴音の相づち、いつも聞いてなかったけど、無いと変な感じ」
琴音も勇ちゃんみたいに言葉を使えたら良かったのに。無愛想でも足りなくても、相手に届くときはちゃんと優しさに変る。そんな風にできたら、きっと琴音から言葉は逃げて行かなかった。声は死ぬまでちゃんと出た。
「ちょっと寂しいっていうか」
ねぇ、勇ちゃん。琴音は言葉が怖いです。無責任で下手くそは沢山を傷つけるから。
でもね、涙が溢れそうだよ。怖かったはずの言葉が逃げて行って……。
「琴音……?」
勇ちゃんの言葉が耳に届いて、とても悲しくなる。現れた涙は頬を伝わずに、粒になって零れ落ちた。
下手くそな琴音の言葉、出ない声。唇だけを動かして、くりかえし、くりかえし。
(こわい、こわい、こわい……)
怖かったはずの言葉が逃げて行って、勇ちゃんに何も伝えられない。
「こ、わい……?何が怖い?」
こわい、こわい、何がこわい?言葉が怖い?傷つけるのが怖い?嫌われるのが怖い?全部こわいよ、どれも同じこと。
でも、このココロを勇ちゃんに伝えないと。勇ちゃんに、伝えないと……。
「……ば、…っ」
「何?言葉……?」
「、なぃ…、…」
――言葉が出ないのが、怖いよ。
勇ちゃんに伝えられないのが、一番怖い。勇ちゃんの、みんなの中の琴音が、いなくなってしまう。
「……琴音の言葉は、出なくなんかない。声が出なくても、ちゃんと聞こえてるから」
「……ぅ、ちゃ…」
「うん、聞こえてるから、だから泣くのはやめてよ……」
ごめんね勇ちゃん、涙止まりそうにないよ。言葉が出ないと、勇ちゃんに謝ることもできない。
「……琴音が泣くのが、一番怖いよ……」
勇ちゃんがすごく辛そうな顔をするから、琴音の方が心配になる。でも、涙が零れるのは止まらなくて、例えば言葉みたいに、一つのことを伝えるのには沢山が必要なんだよ。
「何、笑ってんだよ。……人が心配してんのに」
「……、」
勇ちゃんが笑えるように、琴音も笑うよ。勇ちゃんは琴音の言葉がちゃんと聞こえるって言ってくれたけど、やっぱりまだ下手くそだから。下手くそな言葉を補えるように、笑う。
きっと声は、この涙が止まる頃に出るようになる。そしたらちゃんと勇ちゃんに謝って、このココロを伝えて。
みんなの中から琴音が消えないように、もう二度と、言葉が逃げて行かないように。
ちゃんと、ちゃんと、ちゃんと。
制作:08.12.25
UP:08.12.26
UP:08.12.26