光は白いと、僕は答えるだろう。其れも不透明で、尚且つ一切の汚れもない純白だと。
夢想空間
教室の少し黄ばんだカーテンが風に揺れ、彼が遮ることの出来なかった白色の光が静かに浸食を計っていた。
夏は日が昇るのが早いと云のは勿論承知のことなのだが、其れでも朝の8時前に之だけの明りを室内に注ぎ込む太陽の力の底知れぬこと。響は朝の教室が好きだった。女々しい自分の名前なんかより、ずっと。
もうすぐ秋が来る。朝は冷え、半袖のポロシャツなどでは迂闊に登校路に付けなくなってしまう。同じように、そんな格好で教室の窓を開け放つことも。
「ああ、響。おはよう」
「ん、おはよう。」
ハードカバーの分厚い小説を2、3冊抱えた女の子が何気無く教室に入って来た。
――櫻井さや、彼女は怪物だ。あんな多量の文字の羅列を、授業中に確実に読み切ってしまう。前の日に図書室から借りて来た本を、朝早くに自分の机に運び込むのがさやの習慣だった。
人間が沼に沈む様子を、「ずぶずぶ」と表現する人は多分少なくない。彼女の本への執念は、正に「ずぶずぶ」だった。ほんの数秒で沈み込み、基本的に自力では上がって来られない。さやの場合は他人の力を借りても至極困難だ。
響は席を立ち、一階下の自販機に向かった。週に一度、この奇妙な時間帯に響がさやにミネラルウォーターを奢ってやるのが二人の習慣だった。
さやは本に沈んでから何故か決まって10分後、喉の渇きを覚えて頭の半分だけを沼から出す。其のタイミングを逃すと、彼女を引き止める方法は皆無と云って差し支えなかった。
「ほら。」
「ありがとう‥。」
ひやりと冷たいモノが頬に触れて、さやはやっと意識を外界に向けた。響は彼女の前の席の椅子を陣取って、コーラの缶を仰ぐ。
「なあ櫻井、最近のでさ『歴史の怪物』みたいなコピーの本、何だっけ?エイゴリアンじゃなくて、」
「‥『E・コストヴァ』の『ヒストリアン』?」
「ソレ。読んだ?」
「まだ。予約中。」
さやの唇がペットボトルに再び触れ、離れる。化粧気のない彼女の、ただ僅かに色付いただけの自然の其れだ。
「もの凄い長編を書いてる作家ってさ、『主人公たちが勝手に動いてくれる』みたいな口振りをするでしょ?」
「ああ、『グイン・サーガ』とかそんなんな。」
「アレってあながち嘘じゃないのかもって思う訳。」
唐突な話題に面食らいながらも、響は相手の話の意図を必死に考えていた。雑談なんてそんなものだ。唐突で、特別な意図もなく、相手が別のことに意識を取られていることも少なくない。そう云ういい加減さが、雑談の醍醐味なのかも知れないが。
「あたし、偶に小説書くんだ。」
「、知らなかった。ぶったまげた。」
声に出したもの以外の特別な感情はなかった。単に驚いた、意外だった。勿論さやが小説を書くのが不似合いな人物と云う意味ではなく、さやが読書以外の趣味を持っていることが意外だったのだ。
「そんな大それたモノじゃないけど。やっぱり結構難しい訳、主人公って思い通りに動いてくれなくて。」
「そう云うもんなん‥?」
「そう云うもんなん。そう云う時、主人公がって云うより『物語』って生きてるのかなって思う。‥意思を持ってるみたい。」
自分で口にしたことに、さやは自分で笑った。真剣な面持ちの響を裏切るように、くすりくすりと笑いながら何時もと同じ話題に戻る。
「『世界の中心で愛を叫ぶ』、読んだ?」
「読んだ。結構面白かったけどさ、俺ああ云うのだめなんだよね。」
さやは肩をすくめて「何で?」と云うように響を見た。如何やらさやとしては『せかちゅう』は当りと云って差し支えない一篇だったのだろう。
「誰かが死んでお涙頂戴みたいなノリの恋愛小説。押し付けがましいって云うか。」
其れでやっと納得したらしい。本に枝折りを挟んで頬杖を付くと、彼女の白い首筋が目に入る。
「私さ‥『死ぬ』のって悲しいてのより、不思議の方が大きいんだ‥。
もう長いこと『死』の悲しさを経験してなくて、忘れてるって云うのも在るのかも知れないけど。」
響自身も確かにそうだ。幼稚園の時に祖父が死んで以来、近しい身内も友人も失っていない。「死」に関して、自分が鈍感になっている自覚は在った。
「でも悪い題材じゃないと思うよ。刺激的で、現実と非現実の境みたいで。」
さやは席を立って窓際で伸びをした。青い空から注ぐ白い光、照らされたシャツ、セミロングの黒髪。
「響は‥?」
「だから好きじゃない」って、其れだけ返せば良かったのに。見取れていたなんて恥ずかしい事を云える筈もなくて、少し考える素振りをしてみせる。
さやは響を見ながら微笑んで、白いスニーカーを脱ぎ揃える。
「私も磁石みたく地球と対極なら、空も飛べるのにね。」
慌てて自分の手を掴む響に、さやはきょとんとした顔をしてみせる。
「何?」
「や‥。」
そんなダイレクトに「何?」と問われても返す言葉が見付からない。緩んだ響の手から白い手が滑り抜ける。
「響は空、嫌い?」
風が吹いた。細めた視界に写る、紺色のスカート。窓の外に身を投げる彼女の、小さな微笑み。
静寂しか残ってはいなかった。窓の外を見渡しても、何時もと違う点は見付からない。絶えた少女の姿は愚か、猫の死体も、さえずる小鳥の影も無かった。ただ燦々と降り注ぐ、白い光があるだけ。
其の日櫻井さやは学校を無断欠席した。夢だったのかも知れない。ただ彼女の机の上に、読みかけの本とミネラルウォーターが忘れられている事は事実だった。
もうすぐ秋が来る。
この白い光も薄らぐだろうか。
制作:06.10.09
UP:06.10.09
UP:06.10.09