―― 気持ち悪い。

 こんな感情は全部、夏の蝉と一緒に死んでしまえ。

蝉声



 耳に届くのは、幾十百と重なった蝉の声ばかり。木漏れ日が美しいコントラストでまだら模様を描き、伝う汗は応えるように輝いた。濡れて張り付いたワイシャツの背が、肌の色を透かしている。

(最悪……)

 目の前に立ちはだかるのは、紅い鳥居と石段。がむしゃらに走った末に辿り着いた場所を見て、晴季(はるき)は大きくため息をついた。吐く息は熱く、喉が焼けそうだ。
 ―― どうしてこんなトコロ……。

「晴季…?」

 安っぽい金属音と聞き慣れた声がした。振り返れば、自転車にまたがった桜井(ひじり)の姿が見えた。聖とは同じ陸上部で幼馴染みだ。
 重い荷物のせいで不安定なハンドルを器用に操り、聖が晴季のそばに自転車を止めた。

「ハル……お前さぁ……」
「ん?」
「若しかして走って来た?学校から?」

 学校から神社(ここ)までランニングなら20分程度だろうか。それよりも速いスピードなら、当然それよりも短い時間で。

「そんなデカい荷物担いで走るの止めろよ……。怪我でもしたらどうすんだよ」
「別に……」

 ―― しねぇよ……。
 心の中で悪態をついて、晴季は視線を石段の方へ戻した。

「こんなトコロ、久しぶりに来た」
「……あぁ、前は良く来てたっけか。裏とかコンクリで整備されてから、何かつまんねーよな」

 昔は本殿の裏に今にも崩れそうな崖が切り立っていて、足下の地面もどことなく不安定だった。崖に鬱蒼と生えた植物の間から、ヘビやらカエルやらが出現することも珍しくなかったし。今では地面をコンクリートが覆い、白線が引かれ、自動車が止まっている。
 何を思ったのか、聖が唐突に荷物を自転車から下ろしてその肩に担いでいた。晴季が持っているのと似たような、肩掛けの白いスポーツバック。くんっと背伸びをして、聖が笑った。

「なぁ晴季、久しぶりに競走しようや」
「は?お前さっき荷物持って走るなって」

「何だよ、お前『別に』つったじゃん。大丈夫の方の『別に』じゃねぇの?」

 聞こえないように舌打ちして、左の足を一歩後ろに引く。小学生の運動会みたいな、「いちについて」のポーズ。

「よーい」

「どん!」





 耳をふさぐのは、幾十百と重なった蝉の声ばかり。吐く息は熱く、喉が焼けて呼吸が上手くできない。

 ―― いつから聖が嫌いになったんだっけ…?

 聖は「普通」だった。真面目で少しだけ気の強い、どこにでもいる「普通の人」だ。けれど、クラスから浮いていた。
 クラスメイトは聖を()けて、彼の汚点ばかりを並べてみせた。知っていたことも知らなかったことも、目の前にあふれ返る「汚れ」を見て吐き気がした。
 その「汚れ」は間違いなく聖だった。



『カランッカランッ…!!』

 鈴の音は蝉の声に埋もれながらも確かに響いた。晴季と聖の競走のゴールはいつもこの鈴だった。どちらが先に鳴らすか昔はよく競走して、がむしゃらに走っていた。

「くっそ……ハル、速すぎだろ……」

 遅れてゴールした聖が、そんなことを云いながらへたりと膝に手を突いた。彼の肩から鞄がずり落ちる。

「準備運動もしてねぇくせに……。怪我でもしたらどうすんだよ」
「あぁ、ハルはもうウォーミングアップ、済んでたんだっけか」

 「別に……」聖の言葉が、蝉の声でよく聞き取れない。こめかみから流れた汗を、払いのける。
 うっとうしい。

「別に、怪我くらい良いじゃんか。いつも晴季に負けてばっかだし、ちょっとは頑張んないとさ」

 うっとうしい、こんな感情。

 ――いつから聖が嫌いになったんだっけ……?

 「汚点」だらけの聖。真面目で気が強くて、扱いにくい優等生。クラスのみんなにハブられて、そのくせヘラヘラ笑って晴季によく絡んで来る。

「聖といると……」
「……?」
「疲れるよ、正直」

 耳に届くのは、幾十百と重なった蝉の声とキミの吐息。吐いた息は熱く、喉が焼けてしまった。
 もう、声が出そうにない。

「今日初めて俺の名前呼んだろ?」

 聖が二、三歩前に出て、「カランッカランッ」と豪快に鈴を鳴らす。
 不意に懐かしい土の匂いがした。木陰が途切れて、夏の陽射しがじりじりと肌を焼く。青い空には入道雲が浮かんでいて、熱気ばかりを運んで来た。

「嫌いなヤツの名前なんか、呼ぶなよ」

 回れ右をした聖がつまらなそうに笑って、晴季の横を過ぎて行った。振り返っても、見えるのは彼の背中だけ。

 ―― いつから聖が嫌いになったんだっけ…?

 「汚れ」ばかり目の前に並べられて、その「汚れ」は間違いなく聖だった。ただ「汚れ」以外も、間違いなく聖だ。

 ―― どうして聖が嫌いなんだっけ……?


「おい聖……!」

「お前準備運動もしないで走るの止めろよ、荷物持って走るのも。怪我したら部活どころか学校行くのも面倒臭いだろ……!」

 叫んでも聖は振り返らない。ただ手をひらひらと振って、晴季と同じように叫んで返事をした。

「別に、学校まで晴季におぶって貰うから面倒臭くないだろ」

 「誰がおぶるかよ……」聞こえないように悪態をついて、彼の背中を追うように駆けて行った。
 耳に届くのは、幾十百と重なった蝉の声ばかり。吐く息は熱く、夏の熱に溶けていく。



制作:07.08.25
UP:07.09.01