いつも暗い灰色の背広、ネクタイはくすんだ赤。背はあんまり高くなくて、うっすら笑ってるのが多分無表情。
 人生で人並みの苦労をして、損をして、でも幸せは少し控え目で。

 ボクの敬愛する教授は、そんなヒトだ。

烏有先生



 秋の雨は、心地が悪い。ほんの少し歩いただけでむしむしと暑いし、しんと静まれば鳥肌が立つくらいに寒い。気温は低いし湿度は高いし、油彩なんか、なかなか乾いたものじゃない。一昨日乗せた色を今日の筆で汚したときの、あの残念な感じと言ったら、教授のひっかいた黒板ときっと良い勝負だ。
 瀬戸(せと)は底の抜けそうなリュックをどさりと椅子に下ろして、その場で大きくのびをした。目の前にはジェッソで凹凸だけついた白色のカンバス。部屋中に染み付いた油の匂いが心地よく漂う。

 ――瀬戸はいっぱいコンプレックス持ってるんだな

 ツナギを着ながら外の雨を眺めていると、烏有先生の言葉が頭に浮かんだ。烏有先生は数学の先生だ。担任を持ってもらったこともないし。
 もとから変な先生だから、何を言っても許されるようなところがある。

 ――コンプレックスのある人は、成長するよ

 コンプレックスのない人なんて、世界に何人いるんだろう。確かに、瀬戸は劣等感の塊だ。でも人間なんて高慢な生き物は、きっとそれくらいが丁度良いのだ。
 蛇口が吐き出した冷たい水が、薬指の絆創膏に染みた。

 昨日の夜に、包丁で手を切った。その辺でぐだぐだしている冴えない男子だって、ラーメンに入れるネギの為に包丁を握ることくらいあるのだ。
 もちろんそれは指先の、ほんの数ミリの出来事なのだけれど「包丁で手を切った」というその響きの中には、もっと恐ろしいものが潜んでいる感じがする。例えば肉を断ち、骨までは届かなくとも流血を伴い、自身から別のものとして切り離されるような――。瀬戸は身震いして、まだ繋がっている皮膚を絆創膏の上から押さえた。凍り付きそうな雫が、シンクを叩く。

 瀬戸には、心に決めたことがある。それはあの白色のカンバスを、烏有先生の為に染めること。
 烏有先生は、はっきり言って冴えない。瀬戸以上に冴えない。絶対に人生損をして生きてきて、見合うだけの好意を受け取っていないだろう。だから、そんな人は、教え子から絵の一枚でも貰う資格がある。

 烏有先生は、平凡な先生だ。でも瀬戸にとっては特別なのだ。

 パレットに絞り出した黒色で、指先を汚す。その汚した指でカンバスを撫でて、色を移す。カンバスの横には大量の黒色と白色のチューブ――それから一本の赤。
 さあ烏有先生、どんな絵を描こうか。





 秋の雨は、心地が悪い。ほんの少し歩いただけでむしむしと暑いし、しんと静まれば鳥肌が立つくらいに寒い。髪の毛はぺたんこで、肌にまとわりついて鬱陶しい。その残念な感じと言ったら、やたらくっついてくるクラスメイトの河合さんとまったく良い勝負なのだ。
 志野(しの)はいつものように放課後の美術室を覗き込んだ。正確には美術準備室。沢山の資料や画材(若しくはガラクタ)の中に、巨大なカンバスと男子学生が一人。
 彼の名前は瀬戸昭彦。同じクラスで一番遠くの席に座っている人だ。彼は美術準備室を占領し、もはや自身の部屋へと変えようとしている。美術系の賞を少しはとっているようだが、そういう情報は「一般の」クラスメイトには入ってこない。

 ――志野は瀬戸のこと、気になるんだね。

 烏有先生が以前ににこにこ笑顔で言った。担任じゃないけど、先生はよく生徒と世間話をする。そうしてたまに茶化すようなことも言う、真面目なままの顔で。
 烏有先生は、変な人だ。きっと自分の口にした言葉が、若い子にとってどう言う意味なのか理解していない。志野が怒ると、きょとんと解らない顔をした。

 ――志野が気にかけてくれてるって知ったら、瀬戸も少し自信がもてるよ。

 瀬戸はコンプレックスの塊なんだって、先生が言っていた。他人にそんなことを言わせるくらいだから、相当なんだと思う。顔も成績もそこそこで(無口だけど)才能もあるのに、何が不満なんだろう。何が不安なんだろう。

 瀬戸とカンバスのまわりには大量の黒色と白色の絵の具が散乱している。赤色のチューブも一本あるようだけれど、カンバスの上には乗っていない。まだ未完成なのだろうけれど、綺麗な絵だと思う。
 志野は瀬戸のこと、気になるんだねって、言う烏有先生もホントウは人のことを言えないのだ。今まで何度となく志野はこの場所で烏有先生とはち合わせている。毎日じゃないけれど、瀬戸のこと覗きに来てる。

 烏有先生は鈍い。先生に言われるまで瀬戸への気持ちに気付かなかった、志野よりも鈍い。鈍いから、今まで沢山努力して、でもそれに見合うだけの見返りを受け取れずにいたんだろう。それでまた努力する。瀬戸が描いてるあの絵が、何の絵なのか解らないと言った。

 烏有先生は、平凡な先生だ。でも志野にとっては恋ガタキ。

 だから先生がどんなに鈍くても、良い人でも、あの絵が何なのか教えてやる義理はない。あの綺麗な羽根を広げているのが烏有先生の肖像だなんて、絶対に言わない。


 うっすら笑った無表情、いつも暗い灰色の背広。赤色の絵の具は少量の黒と混ざり、彼の襟元を彩るだろう。

 カレの敬愛する烏有教授は、そこに描かれる。



制作:09.01.31
UP:09.02.01