Replica' |
マティスト。数字に愛された人。 六歳の誕生日、レプリカの子供たちは人格検査 ―― 通称“人検”を受けることが義務付られている。俺はその人検に見事引っ掛かった。 ―― 彼がマティストだ。 レプリカには十年に一度マティストと呼ばれる、数学の使徒とも云うべき超人が生を受ける。マティストはあらゆる数式を瞬時に解き、星の数程の数学の羅列を完璧に記憶することが出来た。数学に関することを除けば、其れは普通の人間と何ら変わりない。 マティストは十五歳、つまり中等学校卒業時までは一般の子供たちと同様の教育を受ける。其の後名前も知らない祖国ならぬ祖星(レプリカを創った科学者の住む星)に行き天文学者になる。選択の余地はない。 何でも俺は其の“マティスト”らしい。発覚したのは人検の時だ。両親は泣いて喜んだ。俺は訳も解らず夜な夜な布団に包まって泣いた。―― 人生を奪われた気分だった。 特別扱いされるのが嫌で、マティストであると言う事実は隠し通して来た。両親も其れには承諾した。なのに、あと一年なのに、たった一度の居眠りで其の努力は無へと化したのだ。 「ルークス!!ユダ=ルークス!!!」 雛檀状の教室の、一番前の席。教師は広げたノートに顔面を突っ伏し、大声で寝言を叫ぶ少年に其れに負けない声量の怒声を浴びせた。ハニーブラウンの頭は、ぴくりとも動かない。 ぶちりと、教師の神経が切れる。物凄い形相で回れ右をして、理解不能の数式を ―― 中学三年生に出すには完璧反則と云うレベルの数式を、黒板に書きなぐった。息を切らせ、また回れ右をして居眠りを止めない少年に、低いくせに喧しい声でもう一度叫んだ。 「ユダ=ルークス!!十秒以内に解け!解けなければ単位はやらん!!」 今の言葉のどの部分に反応したのか、ユダはびくりと立上がった。「まだ眠いです」と顔に書いたまま、僅かに開いた目で数式を見つめ‥。 「507です。」 答えた。ユダは頭をこっくりこっくりさせていたが、流石にもう一度夢の中に戻る気はないらしい。呆然と立ち尽くす教師に、ユダの横の生徒が身を乗り出して尋ねた。 「‥合ってるんですか先生‥?」 教師は僅かに意識を取り戻して、また黒板に向かい何か呟きながら其の一角にメモ書きした。三分後、顔を真っ青にしてユダの方を見る。 「ルークス‥。」 名前を呼ばれ、未だ事態の飲み込めないユダは、慌てて辺りを見渡した。皆目を丸め自分の方を見ている。目の前の数式。先刻の発言。 (まじかよ‥。) やってしまった。今更頭が真っ白になって、冷汗が流れた。無意識に解いてしまった‥。馬鹿をした‥。 教師は努めて冷静を装い、静かに諭した。 「ルークス、座りなさい。授業を再開する。」 声が震えていた。 「視線が痛い」とは良く云ったものだ。探る視線で、心がぐじゅぐじゅする。気持ち悪い。噂は人が駆けるよりもずっと早く辺りに広まる。昼食の時間には、学校中にユダの失態が(勿論失態としてではないが)広まっていた。 学食を乗せたトレーを運び、出来るだけ透いている席に腰を下ろす。四方から飛んで来る視線が止むことはない。 「おい!ユダ!」 ガシャンと凄い音。思わず前の席に乱暴にトレーを置いた声の主を確かめた。去年から同じクラスの“サク”だった。恐らく学年一無駄口の多い奴だ。 「何?」 「『何?』じゃねぇよ!!!お前マティストって本当かよ!?すげぇビビたっんですけど!!」 大声で云うなよ。今更大声も何もないけれど。ユダはサクがあまり好きではなかった。無遠慮で、ある意味下品でお調子者で。 「何でもっと早くに教えてくんないかなあ‥?俺信用ない?」 「本気であると思ってるのか?」口に出す訳にも行かず、ユダは無言で白米を口に運んだ。応えがないのを気にする風もなく、サクはまた喋りだす。 「俺がマティストだったら絶対みんなに自慢しまくるのによ〜。ユダ人生選択間違ってない?」 流石にカチンと来た。コップに手を掛け、ぎろりとサクを睨む。 「頭から麦茶被りたいか?其れとも食堂のおばさんに頼んで牛乳にするか?」 「怒るなよ〜。冗談じゃんか、ユダくんマジ怖いよ‥?ほらスマイリースマイリー!」 振り上げようとした拳を誰かに掴まれる。あまりに予想外の出来ごとで、「ひ?」と短い声が出た。 「サク、お前度が過ぎるぞ?これ以上云ったらユダの手止めてやらない。」 其の人はユダの真後ろに立っていた。焦茶色の髪に紺色の瞳。見たことある顔だ。確かクラスメイト。 「なんだリヴか。」 サクが呟く。そうだリヴ=アカシア。何やら十四歳らしからぬ落着きが印象的な少年だった。彼はユダが落ち着いたのを察して手を放し、隣りの席にトレーを置いた。 「横良い?」 「ん‥ああ。」 曖昧な声を出して頷く。動きの一つひとつまで大人っぽいのに対して、顔は下手をすると童顔の部類に入る。第一印象としては「悪い奴じゃないけど、変わった奴」と云う感じだろうか。 「俺が横からとやかく云うのも何だけどさ。」 リヴは視線をユダに向けず、少し伏目がちに口を開いた。コロッケに醤油をかけながら。 「自分で選んだことじゃないなら、あんまり気にするなよ。」 「は?」 「他人にどんな目を向けられようと、自分に負い目がないなら相手にしない方が良い‥と思う。」 核心を突くようなことを云うくせに、如何にも歯切れが悪い。ユダではなくサクが「何其れ?」と疑問をぶつける。 「サクには解んないよなぁこの心境。神経図太そうだし。」 「リヴには‥解んのかよ‥?」 へらへら云うリヴが少し癇に触る。解ったような口を利ける程の経験を、したことが在るとでも云うのか。其の答えは、中途半端に拍子抜けするものだった。 「サクよりはな。俺の場合『期待』じゃなくて『軽蔑』だったけど‥?」 「は?何其れ!初めて聞いたんですけど!?何事?!」 「サクは其の詮索癖を何とかしろ。」 自分に向けられた視線が気になったのか、リヴが醤油の容器を差し出して「使う?」と尋ねる。ユダは首を横に振り、皿の上のコロッケにソースをかけた。 「えっと‥気にするなって如何云う意味?ゴメンあんまり頭に入らなかった。」 「自分は不幸だって思うと、余計に沈むだろ?」 そんな簡単な言葉で済ませてしまう、この人は。“人生を奪われる”経験が、彼には無いのだ。先刻とは違った不快さが湧き上げたが、あの根暗で湿気た心のぐじゅぐじゅよりは幾らかましだった。 「俺は天文学、悪くないと思うけど。」 星がきらきら耀いて、藍色の夜空はまるでビロードの様で辺りを柔らかに包み込んでいる。自分の隣りに立つ肥り気味の男性は、一メートル程もある本格的な望遠鏡に手をかけ嬉しそうに笑った。不思議な人だ。自然の摂理とか人間の魂とか、そう云う物の一切を無視して創られた人工の星に暮らしていると云うのに、何故この人は天体なんかに夢中になれるのだろう。自分たちは科学者の玩具か妄想の延長に過ぎないのに。そんな存在も不確かな人間が抱く「憧れ」に、どれ程の重みが在ると云うのだ。 笑顔の男性は優しい声でこちらに声をかけた。 「ユダも見てみるかい?」 5歳のユダはゴム製の輪に右目を押し付けて、レンズの向こう側を注視した。多くの人を虜にする星々は、微かに物憂げな表情をまとって静かに耀く。 「赤い星が在るだろう。あれはもうすぐ消えてしまう星なんだそうだ。いや、若しかしたらもう消えているかも知れない。」 「何で?」 「星の光は届くのにとても時間がかかるんだ。私たちは何十年、何百年前の“星の光”を見ている。」 流れ星が駆けた。“地球”では流れ星は珍しい物だったらしいが、レプリカでそんな事はない。汚らしい宇宙には、流れ星になる為の屑が山のように在る。 星が嫌いだった。いつも其れは与えられる物で、自分から求めたことは無くて‥。 星がきらきら耀いて、夜空のビロードは僕の心にまとわりついて離れない。 自分で選ばなかったら、何の意味もないのに。 |