Replica' |
「きみの顔、みんなとそっくりじゃないか――目が二つあって、さ――」 「鼻がまんなかにあって、口が下にあって。みんなおなじだろ。たとえば目が二つとも鼻のどっちかにかたよってるとか――口がてっぺんについてるとか――そしたら少しはわかりやすいんだが」 ―― L・キャロル「鏡の国のアリス」より
陽射しがあたたかい。嫌なことしか思い出さないのに、結局逃げ場がなくて足を運ぶ屋上前の階段。座り込んで3分、存外心地のいいことに気付く。 大きく取られた窓は、夏には優しく風を運ぶだろう。窓の視界を塞ぐやはり大きな木は、葉を繁らせ木漏れ日をつくる。今は早々に葉を落とし、奥まで陽射しが忍び込んで来ていた。文句なし、完ぺきだ。 座り込んで10分、動かない脳みそと、おぼろ気になっていた意識のユダの耳に、ふっと人の声が届いた。 「あれ、ヒトがいる?」 取り戻した意識で声の方を見ると、多分……人がいた。短いのを無理にツンツンさせた黒い髪に、ワイシャツの下から覗く派手めな色のTシャツ。スラックスは膝の下まで捲りあげて、上履きはぺたんこ。何処にでもいる、人だ。ただ一部を除いて。 「この時間に此処でヒトに逢うの初めてだ」 その人は多分、笑ったのだと思う。 「そりゃ……」 「うん?」 「当たり前じゃん…授業中なんだし」 「ああ!」と納得の声を出してぽんと手を叩いて見せた。きっと楽しいんだろう、そんな雰囲気の声だ。ただ、表情は窺い知れず。 「僕は2年C組のキョウ=シアヴィル。隣り座っても良い?」 「……3年のユダ=ルークス」 戸惑いながら名前を紡いで、苦笑い。キョウと名乗ったその人はユダが半分だけ占領したその段に「ひょこっ」と腰を下ろした。「ひょこっ」と云う擬音語が多分適切だと思う。 ――マティストだ、って引かれると思った。キョウにそんな素振りは無く、ただ本当にそうかは解らない。その顔を覆っているものが在るから。――額に紅い卍を刻んだ表情の無い面。 「じゃあ『ユダ』のが先輩だ。あ、ユダって呼んで良い?」 「……ん、ああ。何でも良いよ」 「此処気持ち良いよね。あんま先生も来ないし」 物凄く不自然な姿のその人は、当たり前みたいに暖かな陽射しを楽しんでいる。大きく伸びをした後で、身体を倒し、斜めの地面に器用に寝転がった。 「ユダは授業でないの?」 「……会いたくない奴、いるから」 「ふぅん」 自分で云っていて、自分で良く解らなかった。誰に会いたくないのか ―― ラキ=ヴィスタ……?もっと別の人かも知れない。リヴやサクに一々気を使って貰うのが、息苦しいとか。 「キョウは何でサボんの?」 キョウがくすりと笑った。今度のは確かにそう云う気配がしたから、間違いないだろう。 「ユダと一緒。会いたくない奴、って云うか皆だけど。好きじゃない人間の中に埋もれて、何時間も座ってらんないから」 同じ年頃の似たような人間が、直線で区切られた箱に無数に収まっている。みんな同じ方向を向いて、同じ声を聞いて。 「人間の顔ってどれも似たり依ったりで、そう云うのがいっぱいあんのって……気持ち悪い」 それが人工的だとか不自然だとかは微塵も考えない。アリが列を作って蛇行するのを感心するくせに、自分たちは当たり前に幾何学を成してみせる。 同じような顔、同じような年頃と背格好、同じような髪型、同じ服、同じ笑顔……。 「……キョウって人の顔覚えんの苦手じゃねぇ?」 「すっげぇ苦手」キョウが声を上げて笑った。 「でも、ユダのことは覚えられたと思う」 「オレ、そんな変な顔?」 「顔は皆同じ。中身は違うからさ、中身は覚えられるよ」 日がだんだんと昇って、暖かかった陽射しは窓に吸い込まれるみたいに後退していく。今は汚れた上履きのつま先だけ照らして、陽射しのない天井は薄暗く。 キョウがぴたりと動くのを止めて、表情の無い面は人工の死体みたいだ。まるでキョウ自体が、生きていないみたいに。 「一個だけ、忘れられない顔もあるんだよ?そいつ、目が赤くてさ。人間の血なんかよりずっとずっと紅いんだ。怖くて見てらんないくらい」 「ふぅん……」 赤い目と云われてユダの頭に浮かんだのは、結局ラキ=ヴィスタだった。彼女の目は赤茶だから、キョウの云っているのとは明らかに違うのだけれど、でも、他には浮かばない。 「そいつのこと、怖くて。顔が怖いだけなのに、中身まで怖い気がしちゃうし。勿体ないって思うんだけど」 ――真面目だ。怖いものからは逃げるよ、普通。怖いだけなら。 「……キョウ、そいつのこと好きなんじゃん」 「…………」 何云ってんだろ。でも、そうだ。気になって、無視出来なくて、だから怖くても諦めらんなくて。 キョウがむくりと起き上がって、少し笑った。本当に笑っただろうか、面は表情を写さないまま。 「ユダ居るんだ、怖くて好きな人」 「はぁ……!?」 「やっぱ女子?応援するよ、絶対」 これは確実に笑っている、と云うかからかわれている。どうやらキョウの「中身」はころころとよく変わって、よく笑うらしい。「外」は固くて動かないくせに。 「僕も、そいつの中身知れるように頑張るから。ユダも頑張ってよ」 キョウが嬉しそうに笑うから、ユダも吊られて笑った。 変な顔のその人は、人間の顔は皆同じだと云った。大切なのは中身で、一時的な恐怖心で足踏みしてしまうのは勿体ないと。 ――自分で決めたんだ。怖くても、きっと大丈夫。 冒頭部出典
新潮文庫『鏡の国のアリス』 ルイス・キャロル 著 矢川澄子 訳 |