Replica'


act.A7-1 後を悔やむ




 特別な変化を持たない日々を浪費した末、今日もまた「日常」でない日。空の雲は厚みを失い、秋色に染まっている。
 ユダとサクは小さなボロアパートの前で、二人仲良く突っ立っていた。ユダは口を半開きにして、サクは顔を歪め、

「……ユダめ…ヘタレに加え方向音痴だったか…オレとしたことが不覚だった」
「や、方向音痴じゃないから。住所も合ってるし」
「…………」

 サクは茶化していたけれど、頭ん中は多分ユダと一緒だ。
 想像と違う。何かの間違いじゃないのか?どう見たって風呂も(若しかしたらトイレさえ)付いていない六畳一間のボロアパートだ。錆びた集合ポストの大半にはネームプレートが無く、汚い広告がねじ込まれている。壁の塗装はあちこち剥れて、至るところがカビやら「ひび」やらに浸蝕されていた。
 どうしたって、彼の住いとは到底思えない。

「オレ、パス」
「は??」
「せいぜい頑張ってくれたまえユダ君。僕は家に帰ってヴァイオリンの練習をしなくちゃならないからね」
「……何キャラだよ」

 サクがにやっと笑って自転車に跨がる。「明日学校来いって云っとけよ」なんて言付けだけ残して、鼻歌混じりで行ってしまった。

(……サク、何考えてんだよ…?)

 詮索癖のある彼の行動とは思えなかった。まさか本当にヴァイオリンの練習がある訳でもあるまいし。サクは気紛れだから、単に気乗りしないだけかも知れないけれど。

(……ホントに此処で合ってんのかな)

 必要に残るのは理不尽な不安ばかり。
 アパートの一室。こざっぱりした玄関前のチャイムを一度押して、二度目は止める。ブザーみたいな音だ。表札には綺麗な字で、彼一人の名前。



『……はい』

 インターフォンから反って来たのは、年不相応な大人びた声。何故だか少しだけ、ほっとする。

「リヴ、ちゃんと生きてる?」
『あれ?ユダ?……珍しいな、開いてるから入りたかったら入って』

 知っている声なのに、何時もと少しだけ調子が違って聞こえる。語尾や言葉の言い回しさえ――違うはずがないのに。
 鍵は確かに開いていて、中は昼間に電気を点けていないあの独特の薄暗さだった。匂いがする。他人の家の匂い。

「いらっしゃい」
「……お邪魔します」

 「開いてるから」と云っておきながら、リヴはしっかり玄関まで出迎えに来ていた。元気そうだ、何時もの童顔。慣れないやり取りに、苦し紛れににやりと笑ってみせる。リヴの方も少しだけ笑った。

「悪い、スリッパとかないんだ」
「別に良いよ。お見舞いのつもりで来たんだけど、元気そうだし」

 今度はちゃんと笑ってみせたけれど、リヴの方はずっと控え目だった。元気そうだけど、やっぱり何時もと少し違う気がする。テンションが低いとか、そういうのとも、多分違う。

「ありがとうな」
「さっきまでサクも一緒だったんだけど、何か帰っちゃってさ」
「サクらしいな」吹出して、リヴが笑う。
「詮索好きのサクが?」

 口にしてからちょっと後悔したけれど、リヴは「ああ確かに」と笑って返した。
 ユダには彼が云った「サクらしい」の意味が解らない。彼だけが気付いてる誰かの側面なんて、腐る程あるんだろう。リヴは良く人を見ていて、色々なことに気が付く。必要に手や口を挟む訳でもなく、ある一定の距離を置いて、自分の行うべきことが見えているのだと思う。ユダには出来ない芸当だ。

「サクは詮索癖あるけど、面倒ごとか如何かはちゃんと見極めてるみたいだからさ」

 中は、想像通り六畳間だった。申し訳程度のキッチンと、トイレはあるらしい。部屋の中には必要最低限(若しくは其れ以下)のものが置いてあるだけで、がらんとしている。

「リヴって、一人で暮らしてんの?」
「……ああ。炊事洗濯掃除、何でもするよ」

 ひとつだけあった椅子にユダを座らせて、リヴは台所に立った。
 キッチンも家具も古そうだけれど、全部ちゃんと掃除してあって綺麗だ。不思議な気持ちで見ていたら、マグカップ入りのココアが登場した。

「甘いの嫌いだったら悪い。普段人なんか来ないから、何も無くて」
「ココア旨いじゃん。オレこそお見舞いに来たくせに邪魔してるし」

 リヴはどこに座るんだろうかと心配になったけれど、ガス台の処にもたれていて窮屈そうな印象はない。
 病気や怪我の観点で云うなら、間違いなく「元気」だ。ただ不意にうつむいたときの表情が物憂げで、見ていられない。どこまで聞いて良いのだろう。いつかリヴが、何か云っていた気がする。初めてまともに喋ったとき。思い出せない。

「ユダが来てくれて良かったよ、一人だと鬱になるし。すげぇ嬉しい」
「親とか来ねぇの?」
「……来て欲しいような親、いないから」

 どきりとする。なんて云っていたっけ?どこまでなら聞いても良い?どこまでなら、彼を失わない?

「二年のときも休んでわざわざ家に来る程の友達(ダチ)はいなかったからなぁ。云い出しっぺはサクだろうけど」
「ホントだよ、帰るとか訳解んねぇ」

 ユダが膨れるのを見て、リヴが笑う。自分のマグを両手で包んで、縁に唇をつけた。

「ユダは」「ん?」

「ユダは後悔してねぇの?来たこと」

 何でもない口調で云うものだから、何でもないことのように聞こえそうだった。
 頭の中で声が反復する。冷めた声――何故か腹が立った。馬鹿にされているみたいだ。

「何だよそれ」

 リヴは視線をこちらに向けないまま、キッチンの前に座り込んだ。哀しそうな顔はしていない、ただ目に何も映っていない。

「俺の『面倒ごと』にまで巻き込まれるかも知れんじゃん。サクはそれが嫌だったから帰った訳だし」

 笑った素振りだけ。

「何か、ユダ大変そうだから。誰と何が有ったのかとか、聞かないけど」

 太陽はだんだんと沈んで、部屋の中はどんどん暗くなる。今日はリヴの見舞いに来たのだ。彼が学校を休んだから、調子が悪そうだったから。来たのは間違いではなかったと思う――なのに、彼はまた他人の心配ばかり。

「だって……何、つーか……」

 そうえば、いつも彼に心配されてばかりだ。
 リヴはいつも人を見ていて、自分のいるべき場所をちゃんと知ってる。何気ないことにちゃんと気が付いて、助けてくれる――疲れた素振りひとつ見せずに。

「ユダ、帰れよ」
「は?」

 簡潔に紡がれた言葉に耳を疑う。疑う程のことでもなかったみたいに、更に繰り返し。

「もう5時近いし、帰れよ。来てくれてサンキュな」
「……リヴ?」

 飲みかけのマグを持って台所の方に近付くと、怯えたみたいにリヴが俯いて顔を隠す。何を隠し持っているのだろう?聞いてしまったら、彼を失いかねない――何か。
 ――聞いてしまったらきっと、後悔するのだろう。聞かないままにしても確かに、後悔するのだろうけれど。

「やっぱ駄目だ……。ユダに軽蔑されたくない」

 思い出した、食堂でリヴの云った言葉。――俺の場合『期待』じゃなくて『軽蔑』だったけど……?――きっと大切な誰かや、大勢の人に「軽蔑」されたことがあるのだ。

「リヴ」
「頼むよ……」

 普段、無意識のうちにこの人が強いと思い込んでいる。こんな頼りない言葉を口にするなんて、露ほども想わない。
 とんだ勘違いに、悔しくなる。後悔なんて今まで幾度となくしてきたのだし、今からだって幾度となくするのだろう――今からだって。

「明日はちゃんと学校行くし、今日だってホントは大したことなかったんだ」

 また強いフリ。
 もうそんなに先はないんだ――ふっと思った。

「……オレ、リヴの友達だよな?」

 そんなに先はない。世界を失うのだ。それなのに、後悔ばかり重ねるなんて。

「リヴは、オレが何かしでかしたら軽蔑すんの?」

 世界は滅びるのだ、でも諦められない。足掻くと決めたのだ。
 諦められないのは何も彼女一人のことばかりではない。リヴやサク、キョウにヒナキのことだってまだほとんど知らないのに、ユダの秘密事を受け入れてくれた人たちのこと。知りたいと思う。
 ――きっと、本当は、今が一番楽しいんだ。

「オレ一人で友達って思ってる訳じゃないよね……?」

 格好つけきれない、ばつの悪そうな顔でしゃがみ込むと、リヴが思わず吹き出した。

「親友の間違いだろ?」

 嬉しそうで、悲しそうな顔でリヴが云った。初めて見る顔だ――全然、強くなんかない。
 部屋の中はもう、ほとんど真っ暗だった。窓の向こう、マンション群の隙間から赤い太陽が僅かに差し込んできらきら光る。少しして思い出したみたいに、小さな声で、

「        」

 彼が云った。


menunext