おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、そのほうが、おれはしあわせ(、、、、) になれるだろう。
―― 中島 敦「山月記」より

name(虚無)



 父さんはサラリーマン、母さんはパートタイマー、姉さんは季節外れの職探し。高等専門学校二年、中沢弘貴(なかざわひろき) は兵器を作る。殺す人の顔も知らないで、その技術を学ぶ。
 日が短くなって、北風が変にヤル気で、いい加減に衣替えをしないと太刀打ちできなくなってくる。夕方の風が冷たくて、女子のスカートが寒くないのかなんて心配になった。弘貴はずり落ちるスクールバッグを背負い直して、大きめのカーディガンが着崩れていくのに顔を歪める。

(何か、詰まんねぇ……)

 残り半分の階段を一気に駆け上がってホームに出ると、目の前で電車のドアが閉まった。愛らしい音を鳴らしながら、鉄の箱がそろりと発進していく。10分は次の電車が来ないんだ、この駅。
 弘貴がホームの端っこでぼうっと電車を待っていると、足下で何かが動いていた。見れば生き物は存外デカくて、もぞもぞして、つまり、犬だった。もたれたフェンスの向こう側に、犬がいる。雑種だが、恐らく柴犬かなんかが混じっているだろう。笑ったような口元からでろんと舌を出して。
 不意に騒音がして、ヘリコプターが間近を過ぎって行った。風に煽られて髪の毛がバサバサいう。

(野良か……?)

 動じない()の首には赤い首輪と、

(『ヒロキ』って……嫌味?)

 「ヒロキ」と書かれた名札。
 弘貴が覗き込んでも、ヒロキ(・・・) は動かない。ずっと前からそこにいたんじゃないのか?弘貴の方が気付かなかっただけで。

「お前ヒマなの……?」

 ヒロキは息をはあはあ云わせているだけで、何も答えない。

「電車好きなの……?」

 ヒロキは何も答えない。
 しばらくすると次の電車が来て、それでもヒロキはずっとそこで息をはあはあ云わせていた。
 ヘリが消えて、辺りは静かだった。

 なあ、何でそこにいんの?





「なあ弘貴、お前単位やばいんじゃねぇの?」

 ペンキ臭い教室。弘貴が文化祭の装飾係に抜擢されてから、矢倉(やぐら)はそんなことばっか云った。
 単位は、やばい。弘貴は夏休み明け辺りから、課題は勿論、実習系の授業にはほとんど出席してなかった。このままで貫くと、二学期は見事に8単位くらい落とす寸法さ。つまり、進級できない。

「やばいな」
「『やばいな』じゃねぇし。お前優秀なくせにさ」
「…………」
「全然カッコ良くないぞ」

「……知ってる」

 弘貴はそう答えたっきり、また文化祭装飾のペンキ塗りに勤しみ出した。鈍い色ばかり4色で描く、綺麗な迷彩模様。装飾係ってのは、当日はヒマでそれまで忙しい役回りの典型だから。それだけやってれば、取りあえず暇人には見られない。
 何が嬉しくて高専なんか入ったかな。兵器なんて、好きでもないくせに。ものづくりだって、中学の頃も大して得意だった訳じゃないくせに。

 なあ、何でそこにいんの?





 ヒロキは、その日もそこにいた。笑った口から舌を出して、息をはあはあ云わせて、まっすぐ反対側のホームを見てる。矢倉なんか、弘貴が声をかけて初めてヒロキの存在に気付いた。
 やっぱ昨日もヒロキの方が先にそこにいたんだろう。

「野良?」
「首輪付いてる」
「ポチ?」
「ヒロキ」
「ヒロキ?」
「……ヒロキ」

 矢倉がしゃがみ込んで「よろしくなヒロキ」なんてニヤニヤしながら云う。ヒロキは一度舌を引っ込めただけで、またはあはあ云っていた。

「詰まらん」
「さよけ」

 お決まりの音楽と一緒に、ホームに普通電車が滑り込んで来た。矢倉はヒロキにさよならを告げて、点字ブロックの辺りまで行く。

「弘貴?」
「……悪い」

「学校に忘れ物した。先帰っててくんない?」

 矢倉は多くは聞かないで、電車に乗った。ヒロキがまた舌を引っ込める、鉄の箱は遠ざかる。弘貴は、フェンスを背にずるずると座り込んだ。力無く。
 スクールバッグが重力に負けてどさりと落ちた。中に入った工具が金属音を鳴らす。

(やべ、泣きそう……)

 まだ泣いてない。ケド、鼻を啜る。
 気分が沈んで、喉の辺りに嗚咽の気配だけ。

(やっぱ、理由が無いと泣いちゃイケんのかな……男だし)

 緩くあぐらをかくような形で、頭をぐったりと垂れて。何も辛くない、何処も痛くない、今更悲しくなんて ない。ただ息苦しい、泣きたくなる。
 抑えられない程強い衝動でさえないんだ。動くことは出来ないけれど、じっとしていれば直に海の水みたいに引いていく。あと少しだけじっとしていれば済む話だろう。

 暖かかった。ヒロキの息が肩の辺りをずっと温めていた。変な気遣いだ、顔ひとつコッチに向けないくせして。

(なあヒロキ、何でそこにいんの?)

 音にすんのも億劫だ。自分に云ってるみたいだし、馬鹿くさい。
 いつかみたいに騒音がした。ヘリじゃない、戦闘機の声だ。珍しい。姿が見えるようになって、機体が判別出来て、それに搭載する弾薬の知識が無意識に脳みそを横断してく。

 別の機体の声がして、途端にヒロキが吠えた。今まで何もしなかったヒロキが番犬みたく吠えまくった。急いで機体を探せば、知らない型だった。いや、知っている。細身で青い、

 敵機だ。

(ほんと勘弁……)

 単機とはいえ、撃ち合ってどちらかが負ければ下の人間にも影響が出る。あんな鉄の塊、降ってこないならその方が良い。

「ヒロキ!逃げろよ…!」

 既に上空で撃ち合いが始まっていた。回りの人間は悲鳴ばかり上げるし、ヒロキは吠えてばかりいるし。

「あの機体に、何か在るのかよ!」

 イライラする。泣きそうだ。
 怖くなんかないし、万が一巻き込まれて死んでも別に良い。戦闘機の何処を撃てば壊れるのか、戦争で年間何人死んでいるのか、どんなくだらない理由で戦っているのか、知っている。
 知らないのは、ボクの生きる意味と。

 感情の行く先と。

 敵機の方が降ってきた。幸い広い線路の上に上手いこと横たわって、誰も下敷きにならなかった。黒い煙が上がっている。今度こそ逃げた方が良いかも知れない。
 ヒロキは依然として吠え続けて、加えフェンスに体当たりまで始めた。どうしてもあの機体に近付きたいらしい。

「ヒロキ……?」

 ヒロキの決して大きくない身体が、白いフェンスに拒まれ続ける。泣きそうだ。いや、多分もう泣いてる。
 弘貴はカバンから取り出した工具でフェンスを外し始めた。そこにいる人間の誰一人、それどころではなくて文句の一つも付けない。フェンスが外れると、ヒロキは一目散に落ちた機体へと駆けて行った。
 もうすぐ爆発するかも知れない機体だった。パイロットだって、とうに脱出しただろう。

「さくら……」

 その場に座り込んで、弘貴は泣いていた。何でこんな状況で女の子の名前なんか、意味解らん。特別な理由も無い、意味も無い、感情も無い。泣きながら笑っていて、意味も無く笑っていて。


 生きる意味は解らないまま、人を殺す兵器の作り方ばかりが頭を占領する。
 きっと意味なんか知らない方が、ボクには幸せなことなんだろう。

→name(恋歌)

制作:07.12.14
UP:07.12.16