わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ
みなれたちゃわんのこの藍のもようにも
もうきょうおまえはわかれてしまう

(Ora Orade Shitori egumo)
―― 宮沢賢治「永訣の朝」より

name(恋歌)



03

咲良(さくら)

 聞き慣れた声がわたしの名前を呼んだ。
 寒気を帯びた夜の空の下、季節外れの名前を弘貴(ひろき)が躊躇なく呼ぶ。テーブルに横たえていた頭をぐぃともたげると、その人の顔が目の前に迫っていた。

「近い……」
「ああゴメン」

 そんな一言で彼は1mくらい遠くに行く。わたしが枕に使っていたのは、彼の家のダイニングテーブルだ。弘貴はどうやらそれが不満らしく、1m離れた所でむっと眉間に皺を寄せている。

「人ん家のテーブルで寝るなよ」
「そんなの今更じゃない」
「今更だけど」

 3つ年下の弘貴と「わたし」は幼馴染みだ。共働きの彼の家に夕食を運ぶことも珍しくない。弘貴だってもう15なのだから、自分で何か作っても何の問題もないのに。

「もう10時前だし」
「そうだね」
「……父さんも母さんも多分帰って来ないし」
「じゃあ弘貴坊ちゃんは寂しいねぇ」

 弘貴の眉間は更に皺くちゃになって、頭からは湯気が出ていた。勿論それは、わたしが寝ている間に彼がお風呂に入ったからなのだけれど。

「帰んないの?」
「帰って欲しいの?」

 弘貴はもう15で、来年の春には遠くの高校に進学してしまう。その進学にはお引っ越しもセットで、ましてわたしは軍隊なんかに入る予定で。
 ずっと年下だった弘貴ももう15で、これから先も年下なんだろうけど。

「もう10時前だから」
「……弘貴は真面目だね」
「帰らないの?」

 一度目と二度目の声色が変わっていることに、彼自身気付いているだろうか。
 「帰らないよ」答えたらキミはどんな顔をするだろう。

 春になって、弘貴は真面目なまま越してしまった。わたしは毎日足腰を鍛えたりしながら、飛行機を眺めている。





02

浅葱(あさぎ)、そんなに戦闘機(あれ)に乗りたいか?」

 腕たての最中でさえ飛行機から目を離さないわたしに、矢倉(やぐら)少尉は笑いながら云った。矢倉少尉は特別顔が良いとかではないけれど、人当りが良くて陽気で、女性に人気のある人だ。綺麗な奥さんがいるのだけれど。

「その為に軍隊に入ったんです」
「だろうな。空軍(ここ)の奴等はみんなそうさ」
「少尉もですか?」

 少尉は困ったみたいに笑って、

「ああ」

 答えた。
 少尉が近くにしゃがみ込んだので、腕たてを止める。今度は困らないまま笑った。

「浅葱犬好きか?」
「……好きです」
「飛行機とどっちのが好き…?」
「……飛行機です」
「飛行機か……」
「飛行機です」

 「何か?」と尋ねると、少尉が訳を話した。
 もうすぐ此処の基地を離れることと、愛犬をしばらく見てくれる人を探していること。出来れば犬好きで、「矢倉好き」でない人に頼みたいこと(これははっきり言葉にした訳ではないが)。

「浅葱なら信頼できるし適任だと思ったんだが」
「何て名前ですか?」

 ぽかんとしている少尉に「犬の名前」と念を押す。

「タマだ」
「タマ…ですか…?」
「ポチであり太郎でもある」

「好きに呼んでやってくれないか」

 そうして「犬」はわたしのアパートに転がり込んで来た。タマでありポチであり太郎である彼に、わたしも名前を付けた。わたしの声で呼んだときだけ、彼はその名前に反応してくれる。

 矢倉少尉の移動をみんな悲しんだけれど、わたしはまだ別れる実感が湧いていなかった。少尉は良い人だけれど、そう云う感情は抱いていなかったし。





01

「ヒロキ」

 帰宅して一番、呼ぶと必ず出迎えてくれる。少しだけ堅い毛並みを抱き寄せると体温がゆっくりと伝わってくる。仕事で嫌なことが在った日は決ってその体温を確かめた。新しい上官の嫌味とかそんなことばかり愚痴る。
 ヒロキはめったに吠えない犬だったし、わたしなんか太刀打ちできないくらい賢い。彼とは似ても似つかないのに、同じように愛しかった。

「悲しいことから云うね?」

 わたしの問い掛けに応えるように、ヒロキは優しくわたしの頬を舐めた。

「矢倉少尉が貴方を迎えに来るんだって。だから、もう一緒には暮らせないよ?」

 わたしがどんなにきつく抱き締めても、ヒロキは大人しく鳴くだけ。彼の身体が、息が、あたたかい。

「幸せなことを云うよ?」

「協定記念式典のパイロットに選ばれたの」

 ―― 記念式典のパイロット。戦争先と結ばれた平和協定を記念して、国民への予告をせず式典を行なう(ゲリラ的であるのは休戦を良く思わない企業への対策だそうだ)。友好の証としてあちらから贈られて来る飛行機の、記念すべき一人目のパイロットだ。

「やっと飛行機に乗れる」

「ヒロキの住む街の上を飛ぶから、ちゃんと見ていてね?」

 彼の代わりにちゃんと見ていて。スマートで、本当に綺麗な紺碧の機体だから。触れるたび貴方のことを思い出すよ?一日だって忘れたりしないから、だからわたしのことも忘れないでね。いつもみたいに、呼んだら駆け付けて?

 わたしの声で呼ぶ貴方の名前 ――。





00

「ヒロキ…」

「ヒロキ…」

「ひろき…」

 墜ちてゆく機体、やっと理解した本当のところ。こんなだから新しい上官に嫌われる、こんなに頭が悪いから。
 式典がゲリラ的なのは、確かに休戦を良く思わない企業への対策、休戦へ向かう世論を変える為のくだらない茶番。失うものは馬鹿な兵士を二人と戦闘機を一機。たったそれだけの代価で戦争は続けられる、経済は止まらない。

 馬鹿みたい。こんなだから貴方はこっちを向いてくれない。わたしばかりが名前を呼んで、貴方はわたしの名前をまだ覚えているのですか?

 ―― 機体が地面にぶつかる瞬間に目に入った一つの人影。知らない髪型知らない制服知らないカバン、でも確かに貴方だった。
 もう声も出ないくせに何度も何度も名前を呼んで、またわたしばかり。ねぇ

「弘貴……」

 何でそこにいるの?

←name(虚無)

制作:07.12.14
UP:07.12.16