澄んだ瞳から一筋の泪が頬を濡らす。こんな場所が存在して良い筈がない。なんて汚らわしい、なんて卑しい、なんて哀しい世界なのだろうか。
 骨の形が浮彫になった幼子の腕を前に、切に想うのだ。

── 助けなければ


一章 運命の石
000:煩い



── 王が死んだらしい

 悪い噂は、そうでないものよりも拡がり易い。彼の耳にも不吉な噂・はすぐに届いた。

(王か‥。)

 彼は夜の闇に大きな溜息を吐いた。酒場はいつも通りにぎわっていたが、至る所で噂は人からひとへと渡り歩く。酔いを覚ます為に表に出た彼の所まで、色々な声が届いた。
 『魔女の意思を継ぐ王』‥‥昔祖母に嫌になる程聞かされた伝説の人物。其の人が近年見つかった。そして亡くなった。聞けばまだ若い青年だったらしい。親指の爪を噛み、見たこともない『王』にぼんやりと思いを馳せた。
 例えば家族のこと。両親はどんな思いだっただろう‥‥息子が『救世主』だと知り喜んだだろうか、嘆いただろうか。子供を持たぬ自分には到底理解出来ない感情だと彼は再び溜息をついた。

── カツンッ‥‥カツンッ‥‥

 靴が石畳を叩く音が、不自然に辺りに響いた。背筋に悪寒が走る。靴音は次第に早く鮮明になり、絶対的な威圧感となって彼の口を閉ざした。恐怖で声が出ないのだ。
 暗闇からローブの裾が浮かび上がった。視線を足下から上へと移す。下瞼に黒いラインの入った道化師の仮面。

── 止めろ

 蒼白い掌が迫ってくる。彼は壁に張り付いて不自然な呼吸をした。陸に上がった魚のような、痛々しい呼吸。掌が彼の口を塞いぐ。見開いた目から泪が溢れた。

── やめろ

 吐き気が喉に押し寄せる。拳程の丸い塊が食道を逆流する感覚。塞がれた口から漏れた唾液が首筋を伝う。

── ヤメロ‥‥


 『ドカリ』と壁を叩く音が酒場に響いた。客達は一斉に静まり、音のした方へ視線を向ける。

 長い沈黙の後、木の壁の継目から赤黒い液体が滲み出た。



ххх



 目が覚め、西日の輝きに顔をしかめる。郁方はぼんやりと重い頭を持ち上げた。嫌な夢を見た。はっきりとは覚えてはいないが、とても嫌な夢だ。
 時計の短針はVの字を指していた。蒼紫の空と地の境には、金色に輝く太陽が微かに其の顔を覗かせる。
 何故だろうか、漠然とした違和感が頭の中に充満していた。

 僅かに右頬の蛇が疼く。

「おお郁方生き返ったか!」

 不意に剽軽な声が後頭部に届いた。同時に首に回された腕が、ずしりと重くのし掛かる。

「お帰り‥。」
「応よ。十五分前には帰ってたけどな。」

 力尽くで絡んだ腕を振りほどこうとする弟に、腕の主でもある兄 ──遙もやはり力尽くで其れを絞めてかかった。

「折角大学受かっても‥‥青痣提げてちゃ‥‥格好悪い‥‥」
「は?」

 意表を衝いた郁方の言葉に、遙は変な声を出して力を緩めた。すかさず郁方は二三歩後ずさる。

「其の浮かれ様だとA判定だったんだろ‥?」

 全くもって其の通りだった。遙は想わず満面の笑みを浮かべ弟の肩をばしばし叩く。郁方が馬鹿ばかしいと視線を逸らしたのは言うまでもなく。

「いやぁ、今日は記念日だね!ケーキないのケーキ!」
「買ってくれば良いじゃん自分で。」

 大きな欠伸をひとつ。まだはっきりとしない頭に、郁方は洗面所へ足を向けた。

「郁方。」

 熱い掌がふっと手首に触れる。振り向いた先の遙の表情は微かに険しく、真剣だった。

「家の中でくらい、湿布剥いどけよ。」

 特に強くも、弱くもない声だった。郁方の曖昧な返事に、遙はそっけなく手を放した。
 水の流れる音が心地良かった。鏡に映る自分の顔。湿布を剥いだ其の中には蛇が巣喰っていた。蛇の形をした大きな痣。
 確かに日頃湿布で痣を隠しているのは、他人にじろじろ見られない為だ。探る視線は、不快の他の何物でもない。
 遙の言いたいことは解る。家の中でくらい、自分を隠さずにいれば良いと。家族の内の誰も蛇を気持ち悪がったりはしない。良く解っていた。でも関係ない。蛇を一番嫌っているのは郁方自身なのだ。見つめると、無性に刺し殺したくなる。
 郁方は大雑把に顔を洗って湿布を元の様に頬に乗せた。

 信じていない訳じゃない。もし痣を持つのが遙ならば、受け入れられるだろう。愛しく思う程に。嫌われないと解っている。其れでも‥‥‥見られたくないんだ‥‥。

 郁方は深呼吸をして洗面所を出た。

── 『ガシャン』と硝子の砕ける音がした。


menunext
制作:06.02.09
UP:06.02.25