後悔ではない

唯愛しい


001:訣別



 胸の中を這い上がる悪寒。先刻までは確かに滑らかだった空気が肌を刺す。

 静かだ。

 洗面所を出てリビングのドアを開ける。思考が、ぴたりと止まった。艶のない黒髪の、長身の男が意識のない遙を抱き抱えていた。彼はぐったりと腕を垂れて生気のない青年の身体を、ソファーに静かに委ねた。靴を履いたままの男の足下で硝子の砕ける音が漏れる。
 ふと視界に鮮やかな赤色が映った。遙の確りとした腕からは、僅かに血の流れた後があった。小さな切り傷に過ぎない。気にも止めないような。掌が熱くなる。握り締めた拳の内側が湿気る。

「アンタ誰だよ‥」

 無意識に声が漏れた。ふつふつと胸に湧き上げる、怒り。男が上体を起こしきる前に、郁方は彼の胸ぐらに掴みかかっていた。存外男は呆気なく尻餅をついて、無情の蒼い瞳で郁方の顔を見返した。
 翳した自分の拳に、戸惑う。間違いなく殴るつもりだった。自己嫌悪が溢れ出す。抵抗もしない人間(・・) を殴り殺し兼ねなかった自分に対しての嫌悪。

「アンタ誰だよ。何をしたんだよ。」

 低い声。怒りと自制心とで頭が喉が熱く焼けた。脳みそが軋み、吐き気が押し寄せる。

「意識がないだけだ。其れ以上でも以下でもない。」
「ふたつ質問をした筈だ。」

 男は露骨な舌打ちをして、胸ぐらにかかる郁方の腕を握った。

「魂魄取締協会 人魂課外務班班長フランク=マッケンナ‥‥。」

 男の手に力が入る。手首は、歯を食い縛らなければならないくらいに痛んだ。

「笠木郁方、アンタに用がある。」

 フランクは掴んだ郁方の腕を捻った。手は胸元から放れ不自然な方向へ曲がり、郁方が微かな奇声を上げるのと同時に、今度は全身がぐるりと方向を変えた。先刻とは逆にフランクが郁方の上に馬乗りになる。捻られたままの腕に郁方は歯ぎしりをした。
 ナイフの刃が眼前で輝く。其れは郁方の右頬に向けられ吊らぬいた。痛みはない。

「之はまた上等な痣だ。」

 感情のない嘲笑。フランクは郁方の上からひょいと退いて、ナイフを終った。

「ジャンヌ=ダルクを知っているか‥?」

 郁方は答えず、上体を起こして裂けた湿布をむしり剥いだ。肌には傷ひとつなく、僅かな疼きを覚えるばかりだった。

「俺のいた土地では彼女は神聖視されている。同時に協会は其の生まれ変わりを躍起になって探している。」
「だから何だって云うんだ。」

 怒りを帯びた声色。フランクは気に止めることもなく、淡々と続けた。

「何も協会だけじゃない。もっと陰気で残酷な族も‥。」

 フランクは一度口を噤んで掌を遙に翳した。其れは次第に口元に近付く──


 痛々しい呼吸。掌が口を塞いぐ。見開いた目から溢れた泪。
 喉に押し寄せる吐き気。食道を逆流する感覚。塞がれた口から漏れた唾液が、首筋を伝い ──。



「止めろっ!」

 郁方は反射的に間に割り込んで、叫んだ。息が荒くなる。酷い動悸がした。

「誰がそんなお伽話信じるって云うんだ!!ふざけるな!!」
「アンタが信じただろう。」

 郁方は面食らって目を見開いた。生唾を飲む。

「其んなに必死になりやがって。」
「其れは‥。」
「アンタは『魂狩』の存在を認識している。」

 先刻の夢が鮮明に甦った。道化師の仮面を被ったローブ姿の殺人者。思い浮べただけでもぞっと背筋が凍った。

「ジャンヌ=ダルクの生まれ変わりを探していると云っただろう。」

 フランクの視線が郁方に ── 郁方の右頬に注がれた。怒りでも憎しみでも、ましてや哀れみですらない、何か微量の感情が其処に在った。

「アンタが其れ(・・) だとしたら‥‥?」

 思わず眉を寄せる。息が詰まった。

「冗談だろ‥‥?」

 返事はなかった。唯微かに失笑し、座り込んだままの郁方を引っ張り、立たせる。

「別にアンタの家族に被害があっても俺の知った範囲じゃない。だがこっちも仕事だ。アンタを連行するように言われている‥。」

 無慈悲な文字の羅列。嘘などなく、彼の本心だろうか‥?

「人生を捨てる覚悟は出来るか笠木郁方。」

 其の言葉に他意がないとしたら、二度と戻れないのだろう。郁方は直感として了解していた。此の世界から、自分は消えるのだ。

「‥‥‥早い方が良いだろう‥。」

 口の内に拡がるえぐみ(・・・) 。フランクは少し感心した様子で、疑問符の混じった言葉を返した。

「偉くあっさりしてるな。」

「迷う理由がない。」

 選択の余地などない。自分一人の行動で、家族の身の安全が ── 少なくとも『魂狩』からの身の安全が約束されるのなら、迷いなど生まれる筈がないのだ。唯のエゴだ。どんな状況下であろうと、どんな経緯があろうと如何でも良い。大切な人を傷付けずに済むのなら、迷う理由なんてない。

「後悔して泣き喚いても俺は知らないぞ。」
「後悔なんてしないさ。」

 目頭が熱くなる。窓硝子越しの真っ赤な空を仰いだ。



「早く行こうフランク‥。」





+α(何だかんだでカットしたやり取り)
↓↓↓

「記憶は消して行く。此の世界に“笠木郁方”は存在しなかった。 心配ならちゃんと確認してっても良‥‥。 」

 郁方はフランクの胸を軽く殴った。悔しかった。

「見たいと‥思うか‥‥?」

 自分がいなくても、何の気兼ねもなく笑っている家族の姿を。耐えられない。出て行って叫んでしまうだろう。忘れないで欲しいと、泣き喚くだろう。



(格好悪いのも書こうと思ったけど、郁方は後々もっと格好悪くなるだろうからカット。其れでもって更に。




menunext
制作:06.02.23
UP:06.02.28