002:時雨



 蒼や橙色の光の渦が辺りを包んでいた。其れは熱よりも風に近く、肌に当ると微かに痺れる。郁方はぼうっと其の光を魅入っていたが、光達は存外あっさりと薄れていった。
 辺りの景色が変わった。漆黒の闇に無数の蝋燭が立ち並ぶ。仄かに照らし出された艶やかな鉱石の床には、アルファベットに似た文字の羅列が放射線状に刻み込まれていた。
 陰の中には幾人かの人影があった。紺碧のマントを纏い、皆真っ直ぐ郁方の方を見る。郁方と共に文字の中心に立つフランクは、静かに片膝をついた。

「御期待に沿えず、申し訳御座いません。」

 フランクの口から出たのは、揶揄の声色を帯びた作られた言葉。影のひとつはにやりと口の端を吊り上がらせた。

「ご苦労だったフランク。」

 フランクは立ち上がると仰々しく一礼をして、影の一人 ── 女性の横に足を進めた。
 闇に目が慣れると、辺りがだいぶ見えるようになった。郁方が立っているのは二十畳程の正方形の部屋の中央。其の足下から渦を描くように床に文字が刻まれ、半径2m程度の其の円の外に5、6人の人影が在る。
 一人特別豪勢なマントを纏った老人が、重々しく口を開いた。

「王よ、我々は君を歓迎しよう。」

 老人は其れだけ云うと、踵を返し部屋を出た。後に他の人達も続く。其の顔触れは屈強な男であったり、聡明な博士の様であったり、まだ若い青年であったり様々だ。部屋の中には郁方とフランク、彼の横に立つ女性の一人だけが残った。
 短い沈黙の後、彼女は小さく溜息をついた。

「フランク、貴方心臓に悪いわ‥。」

 フランクは表情を変えないまま肩を竦めて、マントを脱ぎ郁方の頭に被せた。

「ロビンは気に入ったみたいだぜ?」

 彼はそう云い捨てて部屋を出ていった。唯呆然と突っ立って行動を思いためらう郁方に、彼女はにこやかに微笑み肩をそっと押した。

「自己紹介が遅れたわ。ローズ=コナー、人魂課内務班長よ。」

 ブロンドが微かになびく。郁方が“自己紹介”を返そうとすると、ローズは遮る様に郁方の頭上のマントを掴み、深く被せ直した。

「貴方の自己紹介はなし。話さなくてはならない事が山程在るの。」

 蝋燭の炎が揺れた。冷やかな彼女の声は先刻とは対照的で、圧力に似たものが在った。



ххх



 部屋の中には暖かい光が満ちていた。ランプの灯は赤みを帯びて、落ち着く。

「ご免なさいね。もうマント(それ)外して構わないから。」

 椅子に腰を下ろした郁方に、ローズは引出しから出した湿布を差し出した。郁方は其れを受け取ると、代わりにフランクのマントを渡す。雨はまるで波の音の様に、部屋の中にまで染みてきていた。

「何から話すべきかしら。きっと何も聞いてないんでしょうから。」

 伏目がちに郁方の顔を覗き込む。碧い瞳は嫌に冷たく、博識の老女の様なオーラを帯びていた。

「事の始まりは今から約六〇〇年前、此処 ── ネウトゥロはそう、荒れていたの。」

 昔話を語る乳母の様に、ローズは話し出した。滑らかな声が心地良く耳をくすぐる。


── 荒れていた。河には汚泥が満ち、空が青く晴れあがることはない。路地裏にはハエのたかる屍体が転がる。ネウトゥロはそう云う国だった。更に云うならば、其処は悪魔崇拝の理想郷で有り得た。

 其の最中、一人の少女が国を訪れた。名をジャンヌ=ダルク、自らを咎人と嘆くことも在ったと云う。彼女は稀有な魂の持主であり、其の魂には一点の曇りもなかった。彼女はネウトゥロを見て涙を流した。

── 助けなければ

 ジャンヌは悪魔と魂の売買を取り付けた。彼女自身の魂を渡す代わりに、国の平和をと。

 河の水は澄み抜けるような空が拡がり、人々は微笑みあった。

 悪魔が代償の魂を抜こうとした時、其処にジャンヌの姿はなかった。悪魔は彼女を蔑み、魂を呪ったそうな。

 ジャンヌはネウトゥロを立つ前に“言葉”を残していった。


── 何時の日か 私の(意思) を継ぐ二人の王が生を受けるでしょう


── 此の国を救うのは唯一人の心なのです


── 私には王を導く他に術がありません


 硝子窓を濡らした滴が、くろがねの錆びた窓枠を伝う。ぴちゃりぴちゃりと音を鳴らしながら、部屋の中を監視していた。

 ── 雨の音は一層に激しく‥。



menunext
制作:06.03.04
UP:06.03.07