005:誓い



 白い髪と髭には思い出した様に薄茶色の毛が混じる。顔に畳まれた皺に威厳は感じられなかったが、僅かに瞼の合間から覗く赤茶色の瞳は底知れぬ力を秘めている様に思われた。総帥は思いの他小柄で、恐らく立ち上がったとしても郁方より背は低いだろう。

「サディ=コナーか‥。まあ構わぬが。」

 垂れ下がった髭を撫でながらファブリスは呟いた。やはりサディは真実を知る人物とはカウントされていなかった様子で、彼の声には微かに驚きの色が窺われた。

「申し訳ありません。一重にわたくしの不注意の為です。」
「構わぬのだローズ、寧ろ相部屋が彼で在ったことを幸福と思わねば。遅かれ早かれ彼にはシェーマスのことを伝えるつもりであったし。」

 随分腰の低い物云いをする人だと郁方は思った。総帥と云うからには、協会で一二の権力者であろうに。

「さてシェーマス=ルア、概要はローズから聞いたと思うが。」

 郁方は小さく頷いた。ファブリスは言葉を選びえらび、ゆっくりとあとを続ける。

「君には今日から協会員の一人として働いてもらうのと同時に、王としての役目を果してもらわねばならん。」
「王の役目、ですか?」
「さよう。」

 ファブリスは空を見つめ人差し指でリズムを取る。規則的に机を叩く音が、響いた。

「ジャンヌ=ダルクが『導きの言葉』を残したことは知っていよう。君には其の導きに従ってもらう必要があるのだよ。導き、つまり予言じゃ。予言を実現させることこそが王の役目。
 我々は総ての言葉が実現した後には平穏が訪れると信じておる。魂狩に怯えることのない異端を消し去った世界じゃ。」

 ふっと疑心が湧きあげた。今の言葉の何処に其れを感じたかは解らないし、感じた疑心が何だったのか心当たりも無かった。只違和感の様なものがふっと浮んだ。

「君を強引に連れて来たことは本当に申し訳なく思っている。我々には時間が無かった。無論今もない訳だが。はじめの言葉はこうだ‥。」



朔の夜までに探し求めよ

運命の石に選ばれし無垢なる魂の騎士

騎士は王の身を護り

新たな道を拓かん



「‥朔とは七〇〇年に一度起きる怪奇現象のことを指しておる。夜の空から月が姿を消すのじゃ。」

 ――新月のことか。だとしたら七〇〇年に一度なんておかしくはないだろうか。朔は月に一度はあるものだろう。

「此の朔までもう一月もないのじゃ。騎士は未だ見付かっておらん。」
「俺‥僕が探し出すんですか?その‥騎士を。」
「いや、騎士を見極めるのは『運命の石』の役目だ。我々には如何することも出来ん。之は私の憶測に過ぎんのだが、騎士は王を護る為に存在する。だとすれば、王がいなければ騎士も現れぬのかも知れん。
 『導き』が正しいければ之から君が逢うことになるだろう、騎士となる者に。」

 話は其れ以上は特に続かなかった。今度はファブリスも一緒にホールに出た。之から『壁』に向かうらしい。立ち上がった彼はやはり小柄で、14、50と云った処だろう。只彼のまとうオーラのせいなのか、そんなことはすぐに気にならなくなった。

「フランク達は嫌なら来なくとも構わぬが。彼処に好き好んで近付こうとする者もおるまい。」

 ファブリスは不意にそんなことを云った。言葉の意味が解らない郁方を除いて、三人は少しの間黙った。一番初めに口を開いたのはフランクだ。

「それじゃあお言葉に甘えて俺は遠慮させていただきます。」
「俺はついて行きますよ。総帥にシェーマスが戻したのを片付けさせる訳にはいきませんから。」

 サディの云うことは何時も何処か皮肉混じりで核心を射ていた。戻すだなんて、郁方にしてみれば心外な訳だが、正直ついて来て貰えるのは有り難い。そんな気味の悪い処に老人と二人きりで向かうのは気が引けた。

「姉さんは一緒に来ると貧血で倒れそうだ。」

 蒼白になっていたローズを見兼ねて、彼女が何か云う前にサディが遮る様に云う。ローズは一瞬彼を見返したが、きゅっと口を結んでファブリスに頭を下げた。

「それでは行くとするかの。私も彼処の臭いは好かんのだが、之も仕事だ。」

 ファブリスが戸を押し開けると、確かに物凄い臭いがした。ローズが手で口を塞ぎ半歩下る。何の臭いだろうか。嗅いだことが在る。錆びた鉄の様な、それでいてつんと鼻をつく。戸は音を立てて自然に閉まった。
 まっくらな部屋を、ふっと蝋燭の明りが照らす。先には短い廊下が見えた。

「此の奥が四畳ほどの小部屋になっていての。」
(小部屋‥?)

 廊下は石造りの様で、そう云う音の響き方をした。堅かった足音が、不意に鈍くなる。靴の裏に薄くのりを塗った様な感覚がした。

「此処が皆が『壁』と呼ぶ場所じゃ。」

 声の響き方が先刻と変わっていた。ファブリスが蝋燭を掲げると、うっすらと部屋の輪郭が浮かび上がる。壁は黒く、立方体の様に思われた。
 “臭い”は、一層に酷くなっていた。劈くと云う言葉が良く当てはまるかも知れない。鉄の臭いは生々しく、嗅覚が麻痺してしまいそうだ。麻痺してしまえばどれだけ良いことか。未だ臭いは鮮明で、頭が軋む。人間の身体は、嫌な処で丈夫だ。
 サディも眉を寄せていたが、郁方よりも数倍ましな表情だ。彼はファブリスから蝋燭を受け取ると、やはり同じ様に掲げた。ファブリスよりも随分彼の方が背が高いので、サディが其れをやると天井の高さまではっきりと解った。壁の色がグラデーションになっている。天井は廊下と同じ様に石の質感を保っているのに、下に向かうにつれ黒く染まってゆく。

 ――名前だ。

 石の壁を無数の名前が埋め尽くしていた。スティーブ、カイテル、ジョナサン、ジャック‥。

 赤黒く、鉄の臭いのする、名前。

 其れが何か解った途端に、臭いは一層生々しく、吐き気を覚えた。何処か肌にまとわりつく様な生暖かい空気。胃酸が喉に逆流し、咳込む。本当に吐いてしまいそうだ。未だ粘り気を持ち、臭いを失わない ―― 血。

 一分間くらいそうしていただろうか。郁方の咳が治まるまで、二人は無言で待っていた。一時の静寂の後、サディは少しからかう様な声色で云った。

「吐かなかったじゃんか。優秀優秀。」
「はじめに云ってくれれば良かったのに。」

 ファブリスは微笑んでおもむろに小さなナイフを取り出した。

「することは解るなシェーマス。」

 頷き、ナイフを受け取る。

「どっちの、名前を書けば良いんですか?」

 ファブリスには其れで通じたようだ。彼は思わせぶりに郁方の顔を覗き込んだ ―― 実際には見ただけだが、そう云う風に感じる。

「名前は飾りではない。君が名前だと思うものを書けば良い。」

 生唾を呑み、右手の親指にナイフを当てる。鋭い痛みの後、艶やかな紅い液体がドーム状に滲み出した。出来るだけまだ黒く染まっていない箇所を探して指の腹を押しつける。
 他の名前の上に書けば良かった。ざらついた石が傷口を擦って、痛む。

 ―― 笠木 郁方

 サディが、耳元で囁いた。

「詠唱を‥『協会に真の忠誠を』」

 指先がずきりずきりと痛んだ。思考が鈍って来る。



「協会に真の忠誠を」



 ―― 忠誠を誓えないのなら貴方は牢の中よ



menunext
制作:06.03.28
UP:06.04.01