―― 仕事ですよ。

 サディは露骨に舌打ちをして、眼前の中年男性を睨み付けた。何故気付かなかったんだ。馬鹿じゃないのか。
 にたにたと面白そうな顔が癇に障り、また一つ舌打ちをする。地べたに座り込んだ彼の額を鷲掴みにして、何か一言唱える。彼の首はカクンと下を向いて、たちまち眠りに落ちてしまった。

(ふざけんなよ‥。)



011:大切な



 身体が重い。金属か何かで出来た小動物が、両手足にへばり付いている様な感じだ。見える人が見たら、インプみたいな生物が実際絡み付いているかも知れない。重い。金属なんて比にならない、下手に振り回せば手足が千切れてしまいそうだ。思うように身動きが取れない。
 目の下の隈をなぞった様な傷口から、紅い液体が頬を伝う。吐き出した唾は血で赤黒く濁っていた。

「悪魔って実際いるんですよ?信じたことなかったんじゃありませんか?」
「今でも信じてない。そんなの想像の産物だろ。」

 冷笑するジルの顔は背筋に悪寒が走る程、生々しく不快なモノだった。普通の人間よりも気味の悪さが増しているのは、彼の瞳のせいかも知れない。人らしからぬ ―― 山羊の様な目。其の不気味な少年の手にはナイフが握られていて、尻餅をついて身動きの取れない郁方を面白そうに見つめていた。

「納得できない。何で今更正体明かすんだよ。友達に罪を着せてまで逃げたのを、無駄にする意味が解んねえ。」
「無駄にしませんよ。貴方は殺せば良いんだし、魂を無駄にしなければ何の問題もない。殺すときにはちゃんと背中から刺します。」

 ジルは協会員の証の止め具にナイフを当てて、ぐいっとマントから引き千切った。金属音を響かせて転がって行った其れに、冷ややかな視線を送る。

「あんなの、使いこなせなければ何の意味もないのに。」

 其の表情のまま郁方に向き直り、右頬にナイフを突き立てる。例の如く痛みも流れ出る血もなかったが、ジルは其れを見て微かに笑みを浮かべるだけだった。ナイフを左肩に突き刺し、耳元で囁く。

「ぐっ‥づ‥。」
「飽きてきました。そろそろ逝きますか?」

 深く刺さったナイフを肩から抜く。痛みに叫ぶ筈の声は失われて、目からは涙が流れた。
 何なんだ。向こうで生活していた頃は鼻血に慌てる程度で。鮮血がシャツを紅く染めるなんて、痛みで意識が遠のくなんて、恐怖で涙が流れるなんて。何なんだ。俺が何をした。
 整った呼吸も出来ず、涙が止まることはなく。でもとどめの一刺しがまだない。戸惑い、見上げる。人間の視線は、別の方向を向いていた。

「なんだ、来たんだ。」

 呟かれた其れに感情はなく、大して残念と云う感じはない。
 助かった。反射的に其の人物がいるであろう方向を見た。嘆きの声を飲み込んで、下唇を噛み締める。子供だ。助かってはいない。彼を巻き込んでしまうだけ。

「来っ‥痛゛っ‥んな‥。」

 声にならない。少年は呆然と立ち尽くして、ジルの顔を見つめていた。戸惑いの目は次第に怒りに変わって、拳を堅く握る。

「‥ジル‥お前何してんだよ。」
「ルードこそ何してんの?家から出るなって云ったろ?」

 「ルード」。彼がガラード=メーラなのだ。空気がざわついていた。

「‥‥‥。」
「ああ何してるかって云ったっけ。ご覧の通り彼を殺そうとしています。心配しなくても、ルードを殺す気はないから。」

 ルードはカッと顔を赤くして、歯ぎしりをした。嫌な物を見る様な目付きでジルを睨む。

「違うと、思ったのにな‥。」
「‥‥つまんない。」

 あっさりそう云い捨ててジルは血塗れのままのナイフをしまった。

「良いや、下手に手を出して怒られるの嫌だし。ルードが相手じゃ勝目ないから。」

 冷たい表情のままで郁方の方を向いて、

「之は餞別に。」

 頬の湿布を無理に剥した。

 瞬きの合間に、ジルは其の場から消えた。まだいるのかも知れない、目には見えない姿で。郁方は安堵の溜め息もつけずに、ルードの方を見た。彼は曇った表情で郁方に駆け寄る。

「止血しますけど、あんまり上手くないですよ。」

 ルードが郁方に触れると、ふっと身体が軽くなった。宣言通り、下手な止血だ。其れでも出血が原因の目眩は治まり、涙もやっとのことで止まって喋る余裕も出来た。今の此の状況を有り難く、少し恥ずかしく感じる。

「ありがとう‥。‥赤の他人なのに。」
「きっと他人ではいられないから。貴方の痣‥そう(・・) ですよね‥?」

 本の一瞬だけ、ルードは郁方の顔の痣を見た。蛇の形をした、気色悪い模様。ルードは俯いたまま、途切れとぎれに言葉を発する。

「親友だと 思ってたんですよ、之でも。‥‥とんだ裏切られ方だ‥。」

 哀しそうな顔で、笑う。そうだ、彼は両親にも裏切られた。大切だと云う想いはまるで一方通行の様で、たとえそうで無かったとしても裏切りに変わりはなくて。無理に作った笑顔の下に、底知れぬ絶望感が在るのかと思うと、如何してもやり切れない。

「赤の他人じゃないなら、お節介なことを云う。」

 事務的な口調の郁方に、ルードはふっと顔を上げた。今度は郁方の方が視線を逸らす。

「哀しかったら泣くべきなのかも知れない。でも君の親友も両親も‥まだ生きてるよ。」

 半分は自分に云い聞かせる様に。もう二度と逢えないかも知れない、今迄の様に話せないかも知れない。でも、大切な人は未だ生きている。其れだけではいけないのか。

「ガラード=メーラと云います。」
「知ってる。ルードって呼ぶことにするよ。俺の名前はシェーマス=ルアね。」

 唐突な自己紹介に、少し面白いのを我慢して自分も自己紹介を返す。ルードの方は至って真面目で、哀しげで、また下を向いて震えた声を出した。其れも努めて震えを隠しながら。

「シェーマス‥。」
「‥ん?」
「赤の他人じゃないのなら、今此処で僕のすることを、無かったことにして下さい‥。」

 少年は声を殺して、静かに涙を零していた。





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制作:06.06.09
UP:06.06.11