ペーパーナイフみたいなシンプルなデザインの、見覚えのある曇りのない刃先。其れと同じくらいに危うげな目差しに、サディは自分の中の一瞬の動揺を必死に抑えこんだ。 ナイフを下ろさせようとスッと相手の手に触れる。存外其れは強く握られていて、微動だにしない。もちろん、無理にしようとすれば可能なのだけれど。 「何?」 サディの問いに、答えはなかった。沈黙が痛い。 「疲れたから、夕食前に寝たいんだけどシェーマス。」 「‥‥自覚がないから‥何だよ。」 殺気か、其れに似た何か別のモノで満ちた表情にふと影が落ちる。悲哀の影。 一体何が在った?彼の感情を動かす、彼の怒りの矛先を自分に向ける結果を生み出す何か。心当たりなら山程ある。もし立場が逆だとしたら ―― 家族から引き離され、罵られ、危機に晒されて ―― もうとっくの昔にシェーマスの喉元を切り裂いていただろう。でも今まで其れをしなかった彼を動かした、出来事は何か。 「初めて逢ったとき、サディは『今自分に殺されても不思議はない』って云ったよな‥。」 「ああ‥。」 あまり記憶にない。でも多分、云っただろう。今過去に戻っても同じことを云う。 「その時、俺はサディを疑うのはナイフを向けられてからでも良いって思った。信用して良いんだって。信用するなって、云われたそばから‥。」 ナイフを向けられてからなんて、甘過ぎるのは明確なのに。初対面で「仲良くやれる」なんて大口をたたいた彼らしい思考。 自分は信用していなかったか?彼のことを。立場が逆転している事実がおかしく、馬鹿ばかしい。 「だから何だよ。いつ裏切られて身に危険が及んでも、其れは信用した方の責任だろ‥?」 「サディは、裏切ってなんかいない‥。」 要領を得ない。郁方は表情をそのままにナイフを下ろした。そう思うと不意に歯を食いしばって其れを床に叩き付ける。鈍く喧しい音が、部屋の中に響いた。 「痛っ‥て‥。」 サディは顔を歪め、小さく舌打ちをする。 「ナイフに盗聴機なんて仕掛けて、随分大事にしてくれるんだ‥。」 ―― もっと鈍いやつだと思っていたのに ―― サディは心の中で悪態をつき、痛む右耳を押さえた。 仕掛けを施したナイフをポケットに滑り込ませる。ふたつの意味としての護身用としてだった。 「‥‥さっき、ロビンさんにルードが連れてかれた。」 解っている。当然なのだ、サディ自身がそうなるように“告げ口”したのだから。協会に対する不信感 ―― 会員の誰もが感じ、其れでいて口に出すことの許されない ―― 、彼は迂闊にも発してしまった。「裏切れ」と、誤解されかねない云い方で。 「どうしてだよ‥!!何でルードが‥!」 郁方は相手の胸ぐらを掴み、吐き捨てるように叫ぶ。 言葉が上手く紡げない。感情ばかりが先走りして、吐き出したいものが多過ぎて。 どうして。どうして彼ばかり酷い目に遭わなければならない。どうして世の中の道理は不快な程ねじ曲がっている。どうして自分は何も出来ない。いつもいつも。周りを巻き込んでばかりで、いつも何も出来ない。 「‥‥‥‥ごめん‥。」 襟から、力なくずり落ちる指。郁方は俯いたまま。 「ごめん‥‥‥‥もう、良いや‥。」 ххх 西から吹く乾いた風。冬になろうとするこの短い時期にだけ吹く風だそうだ。嗅いだことない砂漠の匂いに、郁方はぼんやりと“故郷”を思っていた。 早朝。ノックの音で目覚めた郁方は、ふっと横のベッドに目をやった。丸まったサディの身体は寝息で上下することもなく、ただ淡々と睡眠を貪っている。 ―― 疲れてるのか‥。 「‥‥はい。」 郁方はドアに視線を戻し、規則的に響くノック音を打ち切った。 「‥‥どちら‥様でしたっけ‥。」 ノブを捻ると、見覚えのある青年がドアの前に立っていた。記憶が混沌としている。静かな物腰で、長身の‥。 「パオロ=ウィリアムズです、人魂課内務班。」 人魂課内務班 ―― そうだ、昨日ロビンと一緒に歩いていた寡黙そうな青年。何故か、努めてもいないのに冷たい声しか出せる気がしなかった。彼は悪くない。誰も悪くはない。 「サディ=コナーに、用ですか?」 パオロの視線は何処か探る様で、しかし不快とは捉えにくい「探り」であった。喩えて云うのであれば、親類を気遣い、其れ故に何も口にしない老夫の様な視線。 クレスの声も然り、ある種の才である。 「Mr.ルア、君に用事です。」 恐らく郁方の表情は困惑し、嫌悪さえ覗いていたのだろう。彼は苦笑し、其れでも相手を不快にさせることはなく。 「そんな顔しないで下さい。西に、行くんですよね‥?」 西へ、聖地シアヴィルへ。 |