昔、まだ魔術が神秘の法として学ばれていた時代。西の遥か沖に空に浮かぶ街があった。巨大な白い城のような街だと聞く。
 青い蝶が舞い降りた。人程の巨大な羽を翻して、聖戦の始まりを告げた。



016:神話



(ドーヴェ) を北に抜ければ街道に、東なら旧市街地、南西に向かえば砂漠の入口です。」

 そんな事務的な云々を、パオロはやっつけ仕事の如く足取りの重い郁方に話した。着替えと朝食とだけを手早く済ませ、前を行く青年から受け取った荷物に冷たい視線を送る。
 如何やら昨日のロビン=プラナスの呟きに従い、シアヴィルに行くらしい。唐突で露骨だ。そう云うことをパオロに伝えると、彼は困った様に微笑んで「可笑いけど、誰も間違ってはいません。」と解らない返事ばかりを返した。
 街をしばらく行くと、石造りの門が見えた。石畳だった筈の道が、次第に乾いた砂に侵蝕されている。門の向こう、荒れ地の彼方には砂丘の影も顔を覗かせていた。

「Mr.メーラももう直ぐに見える筈です。」

―― 二人で行って来たら良いよ。

 ふっと、郁方の中で何かが疼いた。如何してサディはあんな露骨な行動を取ったのか、全く彼らしくない。如何してロビンは無実と証明されていない人間と、二人で行動するように云ったのか。「誰も間違ってはいない」とは如何云う意味か。二人はそう行動するべきだったと云うのなら、其のメリットは何か。矛盾してはいないのか‥?

「‥ぅえ‥。」

 頬に当るざらついた肉の感覚に、思わず変な声が漏れた。ロバみたいな、見たことのない動物の顔面が直ぐ其処に在った。顔にべったりと付いた唾液が臭う。

「ムーロを見るのは初めてですか?気に入られてるみたいだけど。」

 パオロがつくつくと笑いながら動物の名前を教えてくれた。
 頬擦りをしてくる巨大な頭に手を乗せていると、つくつくがもうひとつ増える。

「其のムーロ、雄だけど。求愛されたら如何するのシェーマス?」
「‥‥ルード‥。」

 両親に関してのいざこざが在ってから、無精して切っていない髪が下の方で結って在る。麻のマントを羽織ったルードが、つくつくの当人だった。

「耳の後ろを撫でてやると良いって、聞いたことがある。」
「ルード」

 もう一度名前を呼ぶと、今度こそ彼も郁方の方を見た。物憂げな微笑みに向き合うのが、予想以上に辛いと感じた。

「昨日は‥」

 引っ張り出せた言葉はたったの一語だけで、其れだけを聞いたルードはふっと空を見上げる。一ひらの蝶が、不安定に浮かんでいた。

「青い蝶だよ、シェーマス‥。」

 答えたのは其れだけだった。パオロがムーロの手綱を引く。

「青い蝶‥西の神話ですね。青は戦の色ですから。」

 こう云う観念の違いが、時折皮肉に思えた。青は冷たい色だ、悲哀を連想させる。肯定的な捉え方だとしても「空」か「海」くらいで、戦とは程遠い。無理に結び付けるとすれば青は良く制服の色に使われる。統率の色だ。

「ごめん‥」

 不意に零れ落ちる言葉。「如何してシェーマスが謝るんだよ?」とルードは苦笑してムーロに荷物を結わえていた。
 意味なんてない。ただ(ガラード)には一生頭が上がらない気がして、

「ごめん‥‥ごめん‥‥ごめん‥‥。」

 足が竦んでしゃがみ込んでしまう。謝りたかった訳ではないのに、お礼を云うべきだった。

「ごめん‥‥。」

 自分の考えていることが、良く解らなかった。



ххх



「大丈夫ですかフランクさん‥?」

 机に突っ伏した上司にサディは声を掛けた。何も珍しいことではないのだ、この人が仕事をサボって寝息を立てるのは。だから、他の誰も気に止めることはない。

「水。」

 折角人が心配しているのに、之だ。サディがグラスを差し出すと、むっくりと起き上がって受け取る。彼の艶のない黒の髪が頬にへばり付いていた。

「もうすぐ新月だな‥。」
「覚えてたんですか?」

 机の上の報告書の束が雪崩を起こしている。音もなく喉に滑り込む水が何処か奇怪だ。

「いや、今思い出した。」

 皮肉で云った筈なのに、自分の上司はこの大切な日を忘れていたらしい。新月までに見つけ出さなければいけない「騎士」は、まだ見付かる気配すらないのに。

 フランクはグラスを空にしてサディに突き返すと、お代わりの要求をした。渋々承諾する彼は、きっとまた皮肉を浴びせて来るだろう。
 いくら喉を潤しても納まることのない渇き。この喉に宿る熱を、誰かに打ち明けることが出来たらどんなに楽だろう。軽蔑のまなざしを向けない、助け出してくれる人はいるだろうか‥?あの幼稚な少年に其れを求めるのは残酷で浅はかだ。
 理解しろとは云わない。助けろとも。終わらせて欲しい、早く。

 窓の外を青い蝶が過ぎる。まだ始まったばかりなんて。フランクは露骨に溜め息を吐いた。





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制作:06.10.09
UP:06.10.09