潮の匂いが濃厚なり始めて間もなく、荒野の向こうに建物の影らしきモノが顔を覗かせた。――“シアヴィル”に、着いた。


018:互



 乾いた空気は遠慮なく冷え込み、月明りさえ閉ざされた暗闇の中では朧気な白い息の姿さえ確認できない。ルードは毛布を身体に巻き付け直して、喧しいくらいに軋むベッドに顔をしかめる。

 こんなのは詐欺だ。

 朧気に顔を出した“シアヴィル”は、どんなに近付いて行っても其れ以上賑やかになることはなかった。現れたのは協会の半分程もない平屋が一つ。一応聖地の其れらしく、立派な石柱が建ち並び細やかな装飾を施してはあったが、其れだけなのだ。町がないどころか、シアヴィルに住むのは小汚ない老夫唯一人。聖地と讃えるにはあまりにずぼら(・・・)な扱いだ。
 老夫は確かアダムスと名乗った。加齢によって勢いを失った口髭と白髪頭の長身の男性。腰をきっちり45度曲げる挨拶の後に、アダムスは皺くちゃの顔を笑顔で更に潰した。

「こんな辺境までよくぞお越し下さいました、青年方。」

 そう云って彼はムーロを小屋に繋ぎ、三人の半歩前を歩いた。石柱が建ち並ぶ廊下からは、ミサの為の広い講堂や御神体を祭った厳かな部屋が見える。其の内のひと部屋に奉られた頭蓋骨程の石塊をアダムスは徐に紹介した。花か六芒星のような印が彫り込まれ、角がない。

「ジャンヌの遺物の一つです‥。」

 其の後も何か続けた。たしか、口許だけを僅かに綻ばせて。

「触れれば‥」

触れれば 強靭な力を手にし得ると



ххх



 宵闇に沈む町並みは僅かに艶を帯び、加え少量の滑稽ささえ備えていた。夫人達の自慢の庭に咲く花々は無彩色に染まり、まるで墓石に捧ぐ其れのように。住宅街であるにも関わらず、此処は何時でも人気に乏しい。変異的に殺人事件が勃発する噂の流れる今なら尚のことだ。
 ある一件の玄関口のノッカーが響く。住人は応えず、ノックは規則的に繰り返す。ノッカーを握る白い腕の少年は、仮面から覗いた金の眼で真っ直ぐドアの向こう側にいる人物を見据えていた。手には銀に輝くナイフを。

「ラセット。誰を相手に居留守を使おうが貴方の勝手ですけど、僕は其れを賢明な行為だとは思いませんよ?」

「結構結構。山羊の坊主にしちゃ賢そうな物云いをするじゃねえの。」

 ドアの向こう側の人間が応えた。低くも高くもなく抑揚は控え目で、発音だけは鮮明な捕らえ難い声。声は直ぐ其処から届くのに、彼は一向に姿を現そうとはしない。ナイフを握った掌に汗が滲んだ。

「しかしだ。幾らサバトで注目を集めたいからって、俺に喧嘩を売るのは賢くないな。リスクだデカいだろう?」
「貴方はルードの叔父だ。親友の身内なら、リスクに伴う価値がありますから。」
「親友か‥!」

 声は堰を切ったように豪快に笑い始めた。苦しそうな息遣いだけが、扉の反対側まで染みて来る。

「アンタ根っこから腐ってるな。犯罪者の域を出る‥!」

 ドアのこちら側の人間は、きっと唇を噛み締めた。「ラセット・ラッチ」と云う人間は如何してこうも不快なのだろうか。昔から受け付けない。平気で自分に不利なモノの一切を無視する男だ。

「犯罪者に故意に荷担する貴方も犯罪者以上でしょう?」
「其れはちょっと違うな。」

 コウモリが軒下を掠める音が耳につく。月明りも殆どない暗闇の中で、ラセットの口調は冷酷さの比率を僅かに増した。

「犯罪って云うのは単に法に背くコトの意味しか持たない。人を殺して責められるのは法に縛られた人間の末路だ。
 俺は中立者だから。
 この国のくだらない法律には縛られない。勿論悪魔崇拝者(あんたら)の掟にもだ。故に俺は犯罪者には成り得ない。

 理解出来るか、ジル?」

 傲慢だ。吐き気がする。同じ血を分けあって尚、人間と云うのはこんなにも「違うモノ」に成り得るのか。至極親しい間柄である筈なのに、ラセットと彼とではこうも違う。ジルは顔をしかめて、ナイフを逆手に持ち替え振り上げた。

「なら貴方を殺すコトも犯罪じゃないんですね?貴方は生きる権利さえ、法に守られてはいない。」

 振り下ろされたナイフは、木製のドアを貫いた。力を加えれば、騒音を伴いながら傷口は広がってゆく。そんな中でさえ、ラセットの声色は変化を見せない。

「俺はアンタを気に入ってるんだ。土産に鍵をやろう。俺の母の棺桶の鍵だ。
 サバトへは「親友の祖母」の屍体と、魔女(・・)を刺したナイフを持っていくと良い。新入りにしちゃあ上出来だろうさ。」

 ドアノブが力無く崩れ落ち、蹴り飛ばした木の板は物凄い勢いで脇に退いた。暗闇の中でさえ更に暗いと感じる室内には、ドアの軋みの音と、金メッキの粗末な鍵だけが残されていた。
 人のいた気配さえ、彼は残らず片付けてしまったらしかった。

 ローブについたフードを引っ張り、深く被り直す。ジルは後ろ手で半壊したドアを閉めて、其の前にズルズルと座り込んだ。変にもたれ掛かれば崩れてしまいそうな木の扉。自分がそうしたのに、不意に如何しようもなく愛しくなる。崩れてしまうと解っているのに、頼りたくなる。
 冷えきった空気が容赦なく身を刺し、抱えた自分の膝を暖かいと感じた。
 まだ頼ってはいけない。頼るのは、自分が崩れてしまうときで良いんだ。其のときキミは、まだ僕が頼ることを赦してくれるだろうか?其のときまでキミは、僕を好いていてくれるだろうか?

「‥ルード‥間に合わないのか‥?」

 誰もいない空間で、誰にも届かない言葉を紡ぐ。窓ガラスから差す細く頼りない月明りだけが、彼にも感じることの出来る唯一の灯だったかも知れない。

 もう、新月になろうか。





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制作:06.12.16
UP:06.12.16