いつから。
 死ぬことよりも、忘れることが恐ろしくなって。
 愛しいものを忘れ失うくらいなら、血の海に死して誠に気付かぬ方が、どれほど楽か。


026:宿主



 宴の楽しげなざわめきと、月のない夜、静寂の狭間。ベッドの上の体は重くめり込むようで、乾いた息が喉を行き来し奇怪な音を立てる。視線の先に明りはなく、おぼろげに冷たい天井が横たわるばかりだ。

 ――意識が、薄い。
 フランクは仰向けに倒れたまま、絶えず軋む頭を抱えていた。支える筈の指が、髪をむしらんばかりに食い込んでいく。脳の血肉が蝕まれていくような感覚。実際に起こっていることも、そう変らないかも知れない。自嘲の笑いが零れる代わりに、歪んだ口許からは短い息が漏れた。

「フランク……?」

 不意の丁寧なノックの後に続く、聞き慣れた声。名乗る必要のない人。

「大丈夫?入るわよ……?」

 光を向かえ入れるドアを押して姿を現したのは、声の通りローズ=コナーだ。低い位置でまとめた彼女の金の髪が、逆光で輝き透けている。暗く捕らえ難い輪郭や碧いはずの瞳、疲れの為に隠し切れなくなった目の下のくまさえ、綺麗だと思う。
 心配そうに眉を寄せている、いつもの顔。

「サディが、貴方が辛そうだったって」
「……ああ」

 ローズが後ろ手で扉を閉めると、廊下の光が閉ざされ、もとの静かな闇に戻った。暗闇に目の慣れたフランクにはローズの姿が見えるが、彼女の方は多分ほとんど見えていないだろう。それでも明りを点けないでいてくれるのは、有り難い。
 歩測でベッドの脇に近付いた彼女が、半分手探りでフランクの手の平を握る。冷たい手だ。

「辛いのは、新月のせい?それとも『騎士』が近くにいるから?」

 握り返した手の平を、熱い額に当てた。僅かに和らいだ痛みとは別に、感情や思いの方はぐるぐると不愉快に絡まり始める。握る力が強くなっていくのに、彼女は表情を変えない。きっと「痛い」に違いないのに。

「……月でも騎士でも…ましてサバトのせいでも、ない。時間が、近いだけだ……」
「……きっと大丈夫だから。絶対に、殺させたりしない」

 祈るような言葉に反する、強すぎる意志を宿した瞳。何度恐れただろう、幾度焦がれただろう。

「ローズ」
「……?」

「王は……」


「『郁方』は、まだ自分の天命を知らされていないのか?」


 紡がれた言葉が、意外だったのだろう。驚いた顔は次第にもとに戻り、また悲しい顔。

「恐らくは。総帥や紅の魔女の御意志だもの。生涯、彼が自身の運命を知ることはないわ」

 感じるのは、多量の諦めと憤り。何故自身の生死さえ見極めることが出来ないのだろう。それも他人の故意によって歪められたものを。  こんな、

「御意志か……」
「……フランク?」
「ご老体の考えることは、解らない……。さっさと殺せば良いものを生かして…大切なものには、嘘をつく」

 こんな思いばかりするのは、ごめんだ。

「……宴に、戻るわね」 「……ああ」

 解けかけた彼女の手を、もう一度だけ握って引き寄せる。首筋に手を当て、触れるだけのキスを。

「さようなら」

 彼の口から零れた言葉に、ローズが少しだけ目を丸める。
 いつ自我を亡くしてしまうかも解らない、いつ命を奪われるかも解らない。はっきりしているのは、近い内に彼女と別れなければならないことくらいで。「さよなら」を告げる間など、ないのかも知れず。

「私からは…『さよなら』はなし」

 金の髪が揺れて彼女の顔が見えなくなる。ドアを開けて、逆光の中最後に一度だけ振り向いたローズは静かにその向こうに消えた。

 身体の中が水分に満ちていたら涙くらい零れただろうか。喉は更に乾き、ぎりぎりと痛み出す。来客の気配を感じ取ったかのように、フランクの中の「何か」が活気づいている。

「……覗き見なんて…悪趣味だな」
「人聞きが悪いね」

 来客は何処とも知れぬ闇の中から、その小さな身体をあらわにした。黒い髪の幼い少女はにっこりと無垢な笑顔でベッドの脇に楽しげに腰掛ける。

「恋人との時間を邪魔したら悪いと思ったのに。それに彼女を殺したのではキミに余りに申し訳が立たない」
「グレース=ドアティ、何をしに来た」

 彼女はわざとらしく驚いた顔をして、その後に気味悪く笑った。フランクの上に馬乗りになる。彼女の長い髪がだらりと垂れて、微かに見えるだけのその笑顔とフランクの視線を繋ぐ。

「愛しい我が子に逢いに来た」

 動くことが叶うのなら、こんな子供を殺すことなど容易いはずなのに――身動きが取れない時点で既に勝敗は明らかだった。グレースは手を伸ばして、彼の頬をそっと撫でた。彼女の手に触れた汗は瞬間に凍り尽き、止めどなく生まれる脂汗がまたそれを溶かす。

「最近のキミは調子が悪そうだったからね、中の子が心配だったんだ」

 フランクの頬に手を添えたまま、彼女はその唇を彼のそれに重ねた。大きく開かれた口から忍び込むのは、舌や唾液ではなく、無数の細い腕だ。喉を這いずり、その奥の肺や腹の辺りまでを掻き回す。そこで目的の「もの」を見つけた腕は、満足げに、ただゆっくりと、彼の身体を解放した。
 込み上げた胃酸で咳き込めど、動かない身体で喉ばかりが焼けた。頭をもたげたグレース=ドアティは汚れた唇を拭い、にっこりと笑う。

「でも、善く育ってる。キミの中は居心地が良いらしい」

失せろ、悪魔が

 どんな低い声だろうと、嫌味の一つにもなりはしない。力んだ腕は血管の姿をあらわにするだけで、そこから動こうとはしない――ただギラギラと睨む眼光だけ。睨まれている彼女自身は当たり前みたいにその視線を笑う。
 笑ったあと、伏し目がちに。

「我が子にも逢えたしね、そうさせて貰うよ。長居しようかと思っていたんだけど、今日は面倒臭いのが近くにいるみたいだ」

 人間のような表情(かお)をして、するりとベッドから下りた。闇の中に消えながら、

「また、近い内に」

 不敵な笑みを浮かべ。
 身体を束縛するものが消えると、反動のように吐き気が帰ってくる。空っぽの胃から零れた酸が、再び喉を焦がす。
 身体の中の「いのち」が疼いた。「これ」は近い内にそのゆりかごを殺すだろう。

「……生かして……堪るか……」

 殺される彼は、繰り返す嘔吐を押さえ込みながらベッドから這い出す。
 彼の身体の中に残るのは、他人と、彼の決意と、僅かに残された彼自身の命ばかり――。


 ――理解しろとは云わない。助けろとも。終わらせて欲しい、早く。




menunext
制作:08.06.08
UP:08.06.08