――包帯を汚す血痕、「痛い」と認識される刺激。まだ「生きて」いるのだと、無意識に思う。

「……生かして…堪るか」

 悪意を、不条理を、この身体を――。


027:殺意



「ミス・コナー」

 宴の喧騒と立ち込める酒の匂いの中で、場違いなくらい丁寧に紡がれた名前。大広間に入ったばかりのローズは、驚いて俯いていた視線を元に戻す。
 少しも酔った様子のないパオロ=ウィリアムスが、すくりとそこに立っていた。

「パオロ…どうか した?」

 にこりと笑って首を傾げたつもりだけれど、疲れた様子だけは表に出ていたかも知れない。パオロは心配そうに笑顔を返して、後ろの酔っ払いを気にしながら云った。

「Mr.マッケンナの様子は如何でした?会いに行かれたのでしょう…?」
「ええ…」

 どこかに僅かな違和感を覚えながら、来た道を振り返る素振り。

「とても疲れているみたいだったけれど、大丈夫よ」

 今度は確かに笑えただろうか。パオロは少しほっとした風に視線を落とした。

「そうですか…、」

 落とした視線をもどし、

「沢山の返り血を浴びていましたから、大変な仕事が多かったのかも知れませんね」

 哀しそうに云う。
 沢山の血の流れた日に、同量の酒が飲み下され――沢山の悲しみが在ったのだろうけれど、それを洗い流すだけの沢山の「酔い」が在ったのだろう。



ххх



 包帯を汚す血痕、「痛い」と認識される刺激。巻き直した新しい包帯は、上手く体をなさず、背中には不必要な汗が滲んだ。濡れた肌にひんやりとした夜の空気。
 熱気に満ちた街の中では気付かなかったが、夜になって少し冷える。郁方は早く上着やら夕食やらにありつきたくて、躍起になって包帯を巻いた。不格好なのは否めないが、これで良いだろうと短なため息をひとつ――誰が困る訳でもないのだし。
 僅かなざわめきの気配と、凛とつくような冷気。羽織った白いシャツに、不確かで鮮明な思考。

 ガタン、
 部屋のドアに、不意に誰かがぶつかる音がした。ノックと云うにはあまりに乱暴で粗末な、ただ意思を持ってドアに当った音だ。
 郁方がドアの前まで行くと、向こう側から荒い息の気配がした。誰だろうか――サディ=コナーでないことは確かだろうけれど。

「……『郁方』!」

 ドアの向こう側の人が、云った。どきりとする。久し振りに聞いた音だった。

 ――カナタ。

「フランクさん、ですか?」

 聞き覚えのある声に扉を引くと、今にも崩れ落ちそうなその人がドアの前に立っていた。目はどこか狂気を帯び、肩で息をして、壁についた手で身体を支えている。着替えていないのであろう彼のシャツからは、血の臭い。

「どうしたんですか…?死にそうな顔をしてる」

 フランクは返事をせずに、皮肉だと僅かな冷笑を浮かべる。郁方が、余りに頼りない彼の身体を支えようと手を伸ばせば、拒む様子もなく素直に体重を預けてきた。想像よりも、軽い。
 狂気のまなざしは常に郁方の方を向いて――ただ視線は合わず――出ない声で、必死に言葉を紡ぐ。

「……笠木、郁方…」

 忘れそうになる自分の名前を聞いて、心臓が波打った。そういう名前だったんだ、俺は。
 力無い彼の大きな手の平が郁方の首もとに伸びる。フランクの瞳には、精気以外の、別の生き物が住んでいた。

「アンタは…自分の、運命を知っているのか……?天命――死期を、他人に捩じ曲げられたことを、知っているのか?
 なあ、」

 視線が合い、彼の目が『紅い』と、郁方が認識したのと同時に息が止まる。
 郁方の首を締めるのは、先刻までが嘘のような怪力の彼の手だ。甲には血管が浮かび、僅かに震える。息の往来以前に、その圧力に対する痛みの方が郁方の意識を奪おうとする。

「っ……ぅ……」

 遠のく意識で必死に声を絞りだそうとした。力で抵抗するよりも、彼の名を音にすることの方が意味があるように思えた。かすむ視界の片隅には、人影と、零れ落ちる涙――。


その……頬の呪いの意味を、ちゃんと知っているのか?







 ぼんやりと、世界が戻ってくる。意識の欠落はほんの一瞬のもので――視界には崩れ落ちたフランクと、その後ろに佇むパオロ=ウィリアムス。

「死んで、しまいましたか」

 動かないフランクと、いつもと同じ冷めた顔のパオロ。術を使った形跡を残した彼のフィブラ。今の言葉。

「パ、オロ……」

 それから、生々しく残る首の痛み。血の気が引いて行く。

「大丈夫ですかシェーマス?誰かすぐに人を寄越しますから、安静にしていて下さい」

 パオロは郁方に歩み寄ってその腕をさすった。寒気がする。

「フランク……さんは…」


「Mr.マッケンナは、もういませんよ」


 簡潔に紡がれる言葉。パオロの横で小さなうめき声がした。フランクだ、まだ生きてる――でも、死んでいる。
 パオロは意識のない彼をひょいと担いで悲しそうに笑う。気のせいではないのだ、フランクは軽い。

 二人の姿が消えて、何もなかったみたいに廊下の壁と見慣れたドアがある。荒い息と熱く痛む首、記憶の中で曖昧に反すうする言葉。

 ―― 呪いの意味を、ちゃんと知っているのか?

「シェーマス…!!」

 間も無く、ぱたぱたと忙しない足音と共にクレスが現れた。とても短い距離だとしても走って来たのだろう、彼女の長い髪は乱れそれが張り付いた頬は赤い。

「そこで、パオロに会って……。大丈夫なの?首にすごい痣が……」

 崩れ落ちそうな顔で歩み寄って、ぺたりと郁方の前にしゃがみ込む。まるで自分のことみたいに、「辛い」顔をして。

「何が、あったの?」

 彼女があまりに悲しい声で云うものだから、誰のことなのか判らなくなる。
 何が、あったのか。誰の一大事で、誰が傷ついたのか。クレスでも、郁方でもなくて――。

「解らないんだ……」

 彼に「何が、あったの」か。
 彼ではない行動と、彼の意志であろう言葉。若しくはその逆か。ちぐはぐで、行き違った……。

「……クレス」

 顔を上げる彼女の頬を、涙がつっと流れた。唇を僅かに動かしただけで、返事の言葉は紡がれない。

「総帥のところに行きたいんだ。肩を、貸して」

 ひりひりと首に残る殺意。
 彼の手に宿っていたのは殺意だ。戸惑いや悲しみではない。




menunext
制作:08.08.21
UP:08.08.22