屋敷には上級悪魔グレース=ドアティと、奥の間にいるらしい古代魔法使いの二人だけ。 その日のことは、悪夢だ。 フランクが屋敷に踏み入れたときには、既に何体もの屍が転がっていた。倒れた討伐隊の誰一人、紅い血を流してはいない。ただそこに横たわり、あらゆるカ所から自身の労廃物を垂れ流していた。目は白目を向き、ぴくりとも動かない。悪臭が立ち込める。 『フランク……!!!』 名前を呼ばれてはっと我に帰る。顔を上げた視線の先にいるのは自分の名を呼んだ先輩の協会員と、長い黒髪の少女が一人。 少女がその協会員に触れた瞬間、彼は朽ちた。 『……悪魔……か……』 込み上げるのは絶対量の恐怖と、同じだけの嫌悪感。 少女は対峙した討伐隊を一人ずつ、瞬きの間に殺した。 『グレース……これは』 不意に現れたのは討伐隊でも悪魔でもなく、頼りない一人の青年だった。まだ幼さを残した、調った顔立ち。真っ青な顔の左半分は包帯で隠されていた。 『どうして、人が……こんなに沢山……死、んで』 ――年若い古代魔法使い。彼だ。 声が震えていた。そんな青年に、グレース=ドアティは微笑んで。 『君のこと殺しそうだったし、みんな好みじゃなかったから』 汗ばんだ手で剣の柄を握り直す。その瞬間、飛び出した別の協会員がぶつりと切れた雄叫びとともに崩れ落ちた。 『ほら、野蛮だろう?』 悪魔は倒せずとも、魔法使いの方は人間だ。魔法使いを殺してしまえば悪魔も倒れるのに――その青年には近付くことさえ出来ない。 不意に、ただ必然的に、グレース=ドアティとフランクの視線がぶつかる。背筋が凍る。 『ああ、でも“みんな好みじゃない”は取り消すよ』 グレースはそう云って、笑った。 彼女の紫色をした瞳が輝くと、屋敷の中に殺人的な“重力”が満ちた。討伐隊は床に突っ伏して、潰れそうな肺から透明な液を嘔吐する。シャンデリアが落ちて、砕けた破片が屍を襲う。 視界には汚れた大理石の床と、歩み寄ったグレース=ドアティの足。フランクは襟首を掴まれ、重力に逆らいながらその身を起こされた。 『残生の器は“これ”にしよう。ウィザード、彼を掴まえといていてくれるかい?』 『…………!』 『協力してくれたなら、今ここではこれ以上殺さないと約束するよ』 恐怖におののく魔法使いは、嗚咽を繰り返しながら何度もうなずいた。 ――朔より暫くの後キミの身体からは僕の器と成るべき『命』が生まれ落ちる。 ――『それ』はキミを喰らうだろうけれど、何も心配はないよ。もともと生き物というのは、己の身体を捧げて遺伝子を繋いでいくものなのだから。自然の摂理と、何ら違いはないのだから。 ――キミは僕と交わり、その胎内に『命』を宿したまでのこと―― その時の嫌悪や恐怖、絶望などというものはフランク=マッケンナの記憶からは失われていた。 協会に戻ったのは意識のない数名の討伐隊と、協会員に保護されてなお暴れ喚き散らすフランクだけだった。彼の身体には既に悪魔の子が巣喰い、その身を緩やかに蝕んでいた。 『殺せ!!悪魔の子など、この身と共に焼いてしまえ!!』 「彼は長い間、己の体内に巣喰うその化け物と対峙してきたのじゃ。 ただ、時は過ぎた。フランクの自我は朽ちた、もう二度と戻ることはないじゃろう」 長椅子に横たわる男は、息をしない屍のごとく微動だにしない。その冷たい肌は、普段のふてぶてしい彼の姿と全く別のものに思われた。 ――彼の身体の中には別の意識が巣喰い、『それ』は殺意を持って、郁方の首を絞めたのだ。彼の瞳に見えた別の色の狂気が、不意に脳裏を過ぎる。 「……まだ、フランクさんの『自我』は生きてます」 「君を殺そうとした時点で、自我が失われたことは明らかだよ」 ロビンが制し、ファブリスがうつむいた。 苛立ちで息が熱くとどこおる――何故そんな安易な解釈で止めてしまうのか。 「フランクさんは……彼は俺の首を絞めながら、名前を呼んだ。悪魔なんかが、知るはずのない名前だ」 郁方の後ろで、ルードが小さく疑問の声を漏らす。それでも大人は耳を貸さず、先刻からと同じ顔のまま郁方を見ていた。 噛み付くように叫び出しそうだった。しかし口から吐き出された言葉は、郁方の意識とは反して必要に低く、消して早くはない速度で、 「『カナタ、お前は呪いの本当の意味を知っているのか』と。貴方がたが俺に隠していることを、教えようと」 例えるならば威圧的に。 |