短い沈黙のあとに、ファブリスは再度口を開いた。郁方と視線のやりとりをするのではなく、重い瞼を閉じて。 「……例え僅かな自我が残っていたとしても、その身を制することが出来ぬのでは、辛いばかりじゃ」 「殺すのですか?」 「……肉体の死すら、今の状況では裏目にでるとも限らん。応急措置じゃが、そのために卿を呼んだ」 唐突に名を呼ばれたルードがびくりと震える気配がする。 「ガラード卿には悪魔を制する力がある。その血を持ってロビンが眠りの術をかけるのじゃ。術をかける二人のどちらかが、その力を放棄するまで覚めぬ眠りを」 「……血」 腑に落ちない表情の郁方に、ルードは笑顔を作ってみせる。ロビンからナイフを受け取った彼は自分のすべきことを既に知っているようで、白い刃で指の腹を傷つけた。 「おばあちゃんが、偶にこうして指を切ってた」 傷口の大きさよりも、多くの血が流れ出る。ナイフごとその鮮血を受け取ったロビンは、先刻塞いだばかりの自身の傷口を開き、その血を交ぜた。 ロビン=プラナスは無傷の指で赤い液体をすくい、意識のない彼の額に十字を描く。胸のフィブラが、輝く。 「“僕が大地を裏切るまでの間――フランク=マッケンナ、君は眠りつづけよう。己の意志と共に”」 「命令」と呼ぶには余りに美しい、祈りのような言葉だった。 「我らが王よ、はぐらかす気はない。知りたいのかい?その呪いの意味を、例え自身を縛るものだとしても」 「彼の意向を無視する理由がありません」 いまだ苛立ちの収まらないシェーマスの顔を、ルードは不安な顔つきで見ていた。 もっと穏やかな人なのだと思っていた。 「俺自身を縛る可能性があったとしても、知る必要があると彼に思わせるモノではあったんです」 ファブリスは悲しむように眉をひそめた。その老人の表情にさえ、シェーマスの感情を押さえるものはない。 人の為に怒り、人の為に泣いた人だから、根はとても穏やかな人なのだと思っていた。僅かな理不尽にも嫌悪を抱き、憤る今のシェーマスの姿は穏やかとは程遠い。 思えば彼のことなど、何も知らないのだ。 「……君は、例えば母君の余命が残り少ないことを知って、そのことを彼女に伝えるじゃろうか」 「…………」 「いつの世も、答えの出ない問いじゃ。我々は伝えない道を選んだまでのこと」 小さな心臓の音が、耳に届き思考を支配する。ルードの脳裏に過ぎったのは、柔らかな祖母の笑みだ。幾度も「王を救え」と口にした彼女の薄くなった唇。 シェーマスの顔は、歪んでいない。少なくとも、ルード自身のものよりは、多少に。 「貴殿の余命は今より三年と幾ばくか」 他の言葉が紡がれることを願った、有り得ないと知っていながら。 泳ぐ目で意識のないフランクの姿を見る。死んではいない、微かな息をしてただ眠っている。でも、目覚めることが許されぬなら、眠っていても、死んでいても変わりはないのかも知れない。周囲の都合で生かされ、殺される。 「その頬の痣は悪魔の呪いであり、服従、契約の証し……。 悪魔は契約者に力を貸す変わりに、契約より二十年の後その者の魂を代価として奪う。その痣の代価は本来、聖ジャンヌが払うべきであったもの。 ……長くとも、二十歳になった時点で、貴殿は死を迎えることになる」 「そんなの……!!」 無意識に叫んだ。当人であるシェーマスは無言のままで、落胆のための息を吐き出すことさえしない。そのことを不安に思いながらも、その方が良いと思った。シェーマスが崩れ落ちる姿を、見たくない。 「王よ……貴方はまだ若い。この老いぼれより先に逝くかも知れぬのだと、どうして伝えられよう」 「……大丈夫ですよ」 彼はルードの望んだ通りに、シャンと二本の足で立っていた。いつか見た――多分ルードがロビン=プラナスに連れられて初めて協会に来たときの、あの時に似た顔をして。 「……協会は、俺が定めから逃げ出すことを恐れたのでしょう?死の恐怖から、いかれるかも知れない。貴方たちは崇拝者に負けるリスクを冒せない」 ロビンが、くすりと笑う。 「俺は、大丈夫です。時間が無いことも解りました」 不安と苛立ちを奥にしまい、落ち着いた声だけを吐き出す。 眉を寄せていたファブリスは、一度うつむき、再び面を上げたときにはシェーマスと対峙するにふさわしい、力強い面持ちになっていた。どちらが彼の本心であり、どちらが偽りかはルードには解らない。 「実に頼もしい。……我々は王を侮っていたようだ。我々は聖ジャンヌの『伝説』しか知らぬが、貴方も彼女と同じ人種のようじゃ」 シェーマスの表情が和らいで、ふっと息を吐き出す気配がする。そうして彼は老人の顔を見て、新しい言葉を紡ぐ。 「……総帥、お願いがあります」 穏やかなときの彼だ。 「俺の名前を……郁方という名を、偽るのは……」 「それは貴方の身分を公にすることと同意じゃが……?」 「はい」 やっぱり、と頭の中で納得が行く。先刻から時折現れる「カナタ」という音は、シェーマス=ルアの真実の名なのだ。 カナタ。ルードはその三音を繰り返し噛み締めた。 「……然るときが来たならば、シェラの地で式を行なう」 何て曖昧な返事なのだ。ルードは僅かに憤り、いつかの自分の言葉を思い出した。 間違っていないと思う。王の正体を知るのは、国民ではなく崇拝者たちだ。 「もう宴も終盤じゃろうが、少しでも楽しむと良い。それから……」 ファブリスが疲労を隠せずに眉間に手をあてる。そして当然のように、 「大広間でローズを見つけたら、ここに来るように伝えてくれないか郁方」 彼の名前を呼んだ。 「……はい」 カナタ。 ルードはその三音を、三度噛み締めた。 |