ガランとした部屋に、取り残された二人と一人。

「……君は入れ知恵が好きじゃなロビン」

 老人は茶化すように言い、

「頼もしいな……」
「僕の忠誠は聖ジャンヌのものですよ」

 青年はかわすように返す。
 老人は瞼を下ろし、

「実に頼もしい」

 噛み締めるように言う。



031:こわい



 食堂は、変わらず賑やかだった。
 その華やかな空気と相反するような、彼女の表情が強烈に脳裏に焼き付いて離れない。総帥の伝言をローズに伝えると、彼女は全てを了解したように小さくうなずいた。ローズは泣きそうな顔をして、泣かずに食堂を後にした。

「『カナタ』……?」

 不意に呼ばれる名前に肩が震えた。名を呼んだルードは不安げな顔をして、目を伏せている。

「そう呼んで良いのかな、俺も」
「……もちろん。変だったら今まで通りでも良いし」

 華やかな賑わいが、不快だった。数多の声が、熱が、匂いが、混ざりあい一層にその濃さを増して「彼ら」を毒する。空腹だったらしいルードが近くのテーブルにあったマフィンに手を伸ばし、一つを自分の口元へ、一つを郁方に手渡した。

「外に出る?」
「外も人でごった返してるかも」
「匂いで酔っちゃいそうだよ」

 結局食堂を出た。協会の外は先刻同様街の人間で溢れているだろうし、食堂はあの有様だ。しかし、いつも賑わっているはずの中央廊下には人影が皆無だった。両端の扉からは騒ぎ声が漏れ、巨大な空の空間に響いている。
 騒ぎの中で聞く声はあんなに不愉快なのに、扉一枚挟んでくぐもるとどこか心地いい。自分には害を及ぼさない距離に、人間の体温を感じる。

 郁方とルードは中央廊下の適当な壁にもたれ掛かり、食堂から持ち出したマフィンとカップスープに口をつけた。あの場にアルコール以外の温かい水分があったことは有り難い。

郁方(カナタ)、は協会の中に自分の部屋があるんだよね?」
「うん。だけど、今は行きたくない」
「何で?」
「……ルームメイトが、いるかも」

 サディとは、あれ以来喋っていない。喋るような時間もほとんど無かった。ましてや、ルードを連れて彼には会えない。
 スープが喉を通ると、自己主張をしているかのように熱がその居場所を教えてくれる。熱は胃袋まで到達すると、多大な安堵感を郁方に与えた。不意に足の力が入らなくなる。

「郁方?」

 急にズルズルと座り込んだ郁方に、ルードが目を丸めた。足の力が抜けた次は、肩が小刻みに震える。確かに少し肌寒いけれど、それは今に始まったことじゃない。

「なんか、ちょっと疲れたかな」

 肩の震えに応えるように声も少し揺らいだ。みっともない。
 ルードは了解したように自分も郁方の横に腰を下ろした。ゆっくりと一度瞬きをして、口を開く。

「一瞬、君が人間じゃないみたいに思えたんだ」
「何だよ、それ」
「『こわい』?」

 ああ。
 彼が「騎士」である意味。周囲や、若しくは郁方自身が閉ざした選択肢を提示して「王」を盲目の中から引きずり出す。無意識に許されないと思った感情を……。


「うん……こわいよ」


 あの冷たい空間の中で言い渡された僅かな余命。その瞬間は素直に理解し、恐怖など微塵も感じなかったのに。
 足に力が入らない、身体が震える。この身を緩やかに束縛しようとしているものは、間違なくない死への「恐れ」だ。

「こわいし……信じられない
「…………」
「はじめて、死にたくないって思った」

 今までの短い人生の中で、幾度となく「自分は死んでも良い」と思った。それで家族が、仲間が無事でいられるなら、命なんかけちる程のものじゃない。そう格好つけて思い込んでいた。それなのに、死が目前に迫った途端に逃げ出したいと思った。
 この、偽善者が。

「……あの時、郁方が泣き崩れたりしてたら、多分すごいショックだった。でも、平然としてるのも、なんか可笑しい。
 普通は、こわいよ」

 冷たい手で、自分の右の頬に触れる。湿布の上から触れているからではなく、その肌は、何かの確信を持って触覚を遮断している。
 この呪いが、こわいのだ。物心ついたころからずっと恐かったし、嫌悪さえ覚えていた。自身とは別の存在であると、感じていた。

 この痣は――フランクの中の生命がそうしたように――いずれ郁方を喰って殺すのだ。

「ごめん」

 ルードが目を丸めたのが解った。

「……この痣の呪いで死ぬとしたら…多分ルードのことを傷つける…」
「なんで……」
「ルードが悪魔にとって不利益だからだ、悪魔を退ける力が有るって。本当かは知らないけど、総帥も言っていたし、……初めて会ったときも……。
 フランクさんが俺の首を絞めたときみたいに、きっと君を傷つける」

 それは別の形の恐怖ではあったが、死への恐れと同等の恐怖だ。
 ルードは悲しい顔をして――若しくは哀れむような、怒ったような顔をして――郁方を睨み返した。

「郁方、君はこんなときでさえ他人のことしか考えられないの?」

 ルードはムスッとして、こちらを睨んだ。彼の言葉の意味を理解した郁方は、うつむき、視線を外す。ルードだって、自分が傷付く話をしているのに、そんなことを言うじゃないか。
 しばらく沈黙が有って、ルードが静かにため息をついた。そうして、思い出したように呟く。

「……お前が、王を解放してやるんだよ……」
「ん?」
「そうだ……きっとそうだ」
「ルード?」

 独り言で勝手に意気込んでいるルードの顔を覗き込むと、それに気付いた彼は間に合わなかった笑顔で笑った。

「俺はきっと、『騎士』で良いんだ」
「何、今さら…?」
「俺は郁方を守れるほど強くないし、頭も良くないし、何も、できないけど……」

 言葉にするのが、追いつかないらしい。その小さな発見は、ルードを煽り、その頬を紅潮させた。

「お祖母ちゃんが言ってたんだ、王の伝説を僕に聞かせた後で、必ず。
 お前は『ガラード』だから、繋がれた王を解放しなきゃいけないんだって……。

俺が、郁方を呪いから解放する。必ず」

 郁方の解らない顔を余所に、ルードは自分を落ち着かせる為に大きく深呼吸をした。そうして、今度は郁方にも理解できるように――若しくは自身に言い聞かせるように――繰り返した。

「郁方を呪いから解放する、必ず。  俺に悪魔を止める力があるんなら、俺が郁方のそばにいる限り……」


「悪魔はキミを殺せない」


 子供の騎士は両の手を広げて、愚かな王を守ろうとする。
 その細い腕で、一体何が守れると言うんだろう。他人の気も知らずに、大みえ切ったその小さな人を、僕は守れるのだろうか?


 守れたら、良いと思う。




二章 羅睺の晩餐 終

menunext
制作:09.07.15
UP:09.07.17